紀元前262年
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テンプレート:Yearbox 紀元前262年は、ローマ暦の年である。当時は、「ルキウス・ポストゥミウス・メゲッルスとクィントゥス・マミリウス・ウィトゥルスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元491年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前262年と表記されるのが一般的となった。
できごと
ギリシア
共和制ローマ
- 共和制ローマは、ハンニバル・ギスコ指揮下のカルタゴに占領されていたアグリジェントを攻撃した。ローマ軍の攻撃は両執政官に率いられ、数ヶ月続いた。アグリジェントの守備隊は援軍を求め、大ハンノに率いられたカルタゴ軍が援護に到着し、ローマ軍の補給基地を破壊した。何度かの小戦闘の後、ローマ軍はアグリジェントの戦いに勝利し、街は陥落した。ハンニバル・ギスコは戦闘の最後に何とか脱出に成功した。
- アグリジェントを失った後、カルタゴ軍は解散した。その間、ローマ軍はアグリジェントで略奪を行い、ギリシア人の住民を奴隷にした。ローマがシチリアからカルタゴを駆逐するのは決定的となった。
シチリア
- セレウコス朝の王アンティオコス1世の長男で長年の間、総督として王国の東側を治めていたセレウコスは、謀反の疑いをかけられ、父親に殺害された。
- アンティオコス1世は、成長しつつあるペルガモン王国を武力で打倒しようと試みた。ペルガモン王国の新しい王エウメネス1世は、サルディス近郊でアンティオコス1世の軍を破り、セレウコス朝の支配から街を解放した。
- アンティオコス1世は死去し、次男のアンティオコス2世が王位を継いだ。