秋田市電
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|} 秋田市電(あきたしでん)は、秋田市(秋田市交通局)が経営していた路面電車である。
目次
概要
秋田馬車鉄道という会社が経営していた軌間1391mmの馬車鉄道が、後に秋田電気軌道と改称して軌間を1067mmに改めた上で路面電車化されたものが創始である。その後、戦時体制下の1941年(昭和16年)に交通統制のため市営化され、秋田市電となった。市営化以前は新大工町経由で土崎までの直通をめざすも市民の反対で市内の軌道の一部区間が撤去されるという憂き目にも遭ったが、戦後になると撤去された区間を再建し、路線長・利用客ともに順調な伸びを見せた。
1951年(昭和26年)には戦前できなかった秋田駅前-土崎間直通を一部ルート変更の上でようやく果たし、翌年の平均乗客数は1日11,000人[1]にものぼる。ラッシュ時は続行運転で大量輸送を行い、最盛期を迎えた。
だが1960年代に入ると、並行して秋田中央交通がバスを走らせるようになり、さらには市営バスや国鉄線とも競合することになったため、1965年(昭和40年)12月31日限りで休止、翌年3月31日に正式廃止となった。
路線データ
1959年当時
- 路線距離:総延長7.7km(全線単線)
- 秋田市内線:秋田駅前 - 土崎間7.3km
- 新大工町線:表鉄砲町 - 新大工町間0.4km
- 電化方式:直流600V架空単線式
- 車庫:表鉄砲町信号所の東側にバス車庫と併設(現在の秋田中央郵便局と保戸野保育所の位置)
沿革
- 1888年(明治21年)6月28日 軌道特許下付[3]
- 1889年(明治22年)7月3日 本社において開業式挙行[4]
- 1889年(明治22年)7月14日 秋田馬車鉄道[5]、秋田(後の新大工町) - 土崎間で営業開始[6](馬14頭、客車5両使用[7])
- 1909年(明治42年) 秋田軌道[8]と改称[9]
- 1916年(大正5年)10月24日 秋田軌道に対し軌道特許状下付(秋田市新大工町-南秋田郡土崎港町間 動力馬力)[10]
- 1920年(大正9年) 秋田電気軌道(本社所在地大阪市西区)[11]と改称[12]
- 1921年(大正10年)4月11日 動力変更許可(動力 電気)[12]
- 1922年(大正11年)1月21日 全線を電化し、路面電車となる[13]
- 1925年(大正14年)新大工町より市内各所への乗合自動車営業開始[14]
- 1928年(昭和3年)4月27日 秋田電気軌道に対し軌道特許状下付[15]
- 1930年(昭和5年)5月26日 秋田電車株式会社[6][16]設立(代表取締役栗原源蔵[17])
- 1930年(昭和5年)9月12日 秋田電車に軌道敷設権譲渡[18]
- 1931年(昭和6年)12月17日 秋田駅前 - 県庁前(後の産業会館前)間開通[6]。開通区間を市内線、既存路線を市外線とする
- 1932年(昭和7年)2月15日 県庁前 - 大町二丁目間開通[6]
- 1933年(昭和8年)8月17日 軌道特許失効(昭和3年4月27日軌道特許分 指定ノ期限マテニ工事施工ノ認可申請ヲ為ササルタメ)[19]
- 1939年(昭和14年)10月7日 起業廃止許可(秋田市大町二丁目-同市新大工町間)[20]
- 1939年(昭和14年)11月7日 秋田駅前-大町二丁目間廃止[21]
- 1940年(昭和15年)4月 秋田駅前 - 大町二丁目間軌道撤去
- 1941年(昭和16年)3月29日 秋田市譲渡許可[3]
- 1941年(昭和16年)4月1日 秋田市交通課に路線・車両設備譲渡
- 1941年(昭和16年)10月 秋田電車会社解散[22]
- 1945年(昭和20年)9月21日 運輸課と改称
- 1950年(昭和25年)9月1日 保戸野信号所(後の表鉄砲町) - 県庁前間開通
- 1951年(昭和26年)2月7日 秋田駅前 - 県庁前間再開通、秋田 - 土崎間を直通運転とし同区間を秋田市内線、支線と化した表鉄砲町 - 新大工町間を新大工町線とする
- 1951年(昭和26年)8月 交通局と改称
- 1953年(昭和28年)秋田市建都350年祭の花電車を運行[23][24]
- 1959年(昭和34年)4月1日 新大工町線廃止
- 1966年(昭和41年)1月1日 営業休止
- 1966年(昭和41年)3月31日 全線廃止
停留所一覧
1962年当時
停留所名 | 営業キロ | 接続路線 |
---|---|---|
秋田駅前 | 0.0 | 日本国有鉄道:奥羽本線・羽越本線(秋田駅) |
連隊前 | *.* | |
公園前 | 0.6 | |
木内前 | 0.9 | |
産業会館前 | *.* | |
大町二丁目 | 1.1 | |
田中町 | 1.5 | |
県庁前 | 2.0 | |
表鉄砲町 | 2.2 | |
日吉 | 3.5 | |
外旭川 | *.* | |
八柳 | 5.2 | |
将軍野 | 6.0 | |
自衛隊前 | 6.3 | |
竜神通 | 6.9 | |
土崎 | 7.3 |
輸送・収支実績
年度 | 輸送人員(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 営業益金(円) | その他益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1908 | 124,250 | 10,110 | 9,210 | 900 | ||||
1909 | 139,374 | 10,866 | 9,377 | 1,489 | 389 | |||
1910 | 156,179 | 12,608 | 10,958 | 1,650 | ||||
1911 | 174,009 | 13,708 | 12,057 | 1,651 | ||||
1912 | 16,863[25] | 13,220 | 11,468 | 1,752 | ||||
1913 | 133,360 | 13,639 | 10,734 | 2,905 | 利子95 | |||
1914 | 132,526 | 13,370 | 9,920 | 3,450 | 利子50 | |||
1915 | 116,645 | 12,490 | 8,916 | 3,574 | 利子51 | |||
1916 | 130,208 | 13,569 | 9,693 | 3,876 | ||||
1917 | 145,230 | 15,244 | 11,386 | 3,858 | ||||
1918 | 143,645 | 19,963 | 15,707 | 4,256 | ||||
1919 | 115,204 | 20,533 | 17,183 | 3,350 | ||||
1920 | 124,670 | 25,541 | 19,027 | 6,514 | ||||
1921 | 80,052 | 1,362 | 15,429 | 11,927 | 3,502 | |||
1922 | 175,273 | 44,763 | 19,611 | 25,152 | ||||
1923 | 183,124 | 59,310 | 58,955 | 355 | ||||
1924 | 366,648 | 51,476 | 42,599 | 8,877 | ||||
1925 | 394,897 | 610 | 53,580 | 42,507 | 11,073 | 償却金7,171 | ||
1926 | 418,077 | 90 | 52,712 | 39,753 | 12,959 | 償却金11,500 | 203 | |
1927 | 422,576 | 717 | 50,201 | 39,244 | 10,957 | 償却金5,000 | 2,165 | |
1928 | 494,991 | 272 | 54,723 | 42,845 | 11,878 | 10,768 | ||
1929 | 484,451 | 651 | 51,504 | 39,304 | 12,200 | 11,988 | ||
1930 | 513,859 | 495 | 47,614 | 43,876 | 3,738 | 7,744 | ||
1931 | 646,512 | 366 | 46,909 | 34,792 | 12,117 | 償却金2,208 | 7,270 | |
1932 | 908,441 | 343 | 62,088 | 42,157 | 19,931 | 自動車及雑損17,225 | 7,021 | |
1933 | 899,178 | 263 | 58,839 | 41,299 | 17,540 | 自動車6償却金雑損17,912 | 6,217 | |
1934 | 926,116 | 322 | 61,634 | 46,136 | 15,498 | 自動車4,797 | 償却金11,395 | 6,792 |
1935 | 833,732 | 217 | 53,876 | 43,930 | 9,946 | 自動車2,071 | 償却金5,143 | 5,838 |
1936 | 714,249 | 115 | 44,249 | 38,128 | 6,121 | 自動車112償却金1,572 | 5,576 | |
1937 | 756,472 | 142 | 46,227 | 39,254 | 6,973 | 自動車1,293 | 償却金3,824 | 6,973 |
- 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版
車両
全廃まで集電装置はトロリーポールを使用していた。公営の路面電車では最後の使用路線である。主幹制御器は全車直接式を使用した。単車はハンドブレーキを常用し、ボギー車はエアブレーキを常用した。ボギー車はいずれも東京都電からの中古車や同系列の設計で新製された車両で、塗装色も東京都電と類似していた。冬季、積雪時は営業車にスノープロウを取り付けて除雪していた[26]。
馬車鉄道の車両
明治23年下期の営業報告書[27]によれば下記の車両を保有していた。
- 客馬車、第1・2号、2頭曳、36人乗り、2両
- 客馬車、第1号、1頭曳、16人乗り、1両
- 客馬車夏用、第1号、2頭曳、36人乗り、1両
- 荷馬車、第2号、2頭曳、2トン半、1両
- 母衣馬車、1頭曳、6人乗り、1両
- ドコービル形、雪払兼用、1両
- 荷車、第1・2号、2両
市営化以前からの引き継ぎ車両
- 100形
- 1921年(大正10年)日本電機車輌製の木造単車。このうち101 - 104(秋田市交通課に引き継ぎ時点では1 - 4。のちに改番した。)は秋田電気鉄道が電車運転開始時に導入した。丸屋根でドアが付いており寒冷地を考慮した構造である。新造された1 - 6の6両が入線したがわずか8年後の1929年(昭和4年)京浜自動車工業にて4両が車体更新を行なった[28]。市営化以前の1930年(昭和5年)に傷みがひどく修理不能な2両を廃車するために車両の新製増備を申請しているが、廃車されたのはこのグループの内の2両と推定される。定員46名だが引き継ぎ時の資料には36名と記されている[29]。 廃車予定車両の置き換え用に新製された111、112は1930年(昭和5年)新潟鐵工所の製造で定員50人。113は111、112と同型車で1931年(昭和6年)新潟鐵工所の製造で路線延長計画を考慮しての増備[29]。101 - 104は1953年(昭和28年) - 1955年(昭和30年)に廃車。111 - 113は20形と混用され、1959年(昭和34年)新大工町線の廃止と200形の登場で予備車になって1962年(昭和37年)頃まで使用された。
市営化以降の入線車両
- 20形
- 1930年(昭和5年)汽車製造製の半鋼製単車。元旭川市街軌道22形で 1948年(昭和23年) に22・23・25・26が入線した。寒冷地の旭川市で使用されていたので丸屋根で、ドアが付いた密閉式の運転台をもっている。廃線時、もはや二軸単車の時代でなかったため、他社へ譲渡されることもなく廃車となった。
- 80形
- 元京都電気鉄道(後の京都市電)の木造単車で、製造メーカー・製造年は不詳[30]。名古屋市電を経て1946年(昭和21年)に86・88・89・93・95・97・98が入線。寒冷地で使用することからオープンデッキ部に折り戸を設置した。1950年(昭和25年) - 1953年(昭和28年)に廃車。
- 30形
- 1953年(昭和28年)に東京都電の中古車体を日本建鉄で改造して入線した半鋼製ボギー車。東京都電では3000形に改造[31]の際に半鋼製車体を新造して電装品や台車は再利用したので、不要となった車体を譲り受けて高床式台車を組み合わせた。31 - 35が在籍した。このうち31・32は元東京都電2000形2011・2012で元の木造車体をなぞる形での鋼体化を行なった。33 - 35は元都電150形で当初から半鋼製車体である。元来車輪径660mmの低床式台車を装備していた車体に車輪径790mmの高床式台車を組み合わせたため、全高が高かった。車高の上がった分停留所のホームに高さを合わせるためステップを継ぎたし、ドアは交換していた。秋田市電全廃と同時に廃車。33号車は秋田市内の幼稚園に寄贈され図書館として使用されたが昭和60年頃までに老朽化のため解体された。
- 60形
- 1951年(昭和26年)日立製作所製の半鋼製ボギー車。各地に存在した東京都電6000形のコピー車両の一つだが、前照灯はオリジナルの前面窓下と異なり前面窓上に設置されていた。廃止後、4両は南海電気鉄道に譲渡され、同社和歌山軌道線の251形となった。集電装置をパンタグラフに変え、和歌山軌道線の多くの車両同様に前照灯を2灯化したが、同線の廃止により譲渡からわずか5年で廃車となっている。
- 200形
- 1959年(昭和34年)日本車輌製の全金属製ボギー車。60形の近代化改良型。アルミサッシと鋼板プレスドアを採用し、側面窓上段とドアのガラスはHゴムで支持していた。前面中央の窓が60形より広い。全廃後、2両が岡山電気軌道に譲渡され1000形となった(その際、集電装置をトロリーポールから石津式パンタグラフに変更)。1981年(昭和56年)に車体を載せ替えて7100形に更新されている。
脚注
参考文献
- テンプレート:Cite book
- 原口隆行『日本の路面電車II-廃止路線・東日本編-』〈JTBキャンブックス〉JTB、2000年。
- 宮松丈夫『路面電車-チン・チンでんしゃ-走りつづけて90年-』コーキ出版、1980年。
- 吉川文夫「回想・秋田市電」『鉄道ファン』 No.189、1977年。
- 吉谷和典「昔のハナシ 秋田・仙台 スカタン電車」『とろりい・らいんず』No.48、日本路面電車同好会、1979年、119-121頁。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite journal(再録:テンプレート:Cite book)
- 和久田康雄『日本の市内電車 ―1895 - 1945―』成山堂書店、2009年。
- ↑ 原口隆行『日本の路面電車II-廃止路線・東日本編-』37頁。
- ↑ 金沢二郎「秋田市交通局」『私鉄車両めぐり特輯』1、24頁
- ↑ 3.0 3.1 「軌道譲渡」『官報』1941年4月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『秋田市史』第4巻、366-367頁
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 明治28年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 『地方鉄道及軌道一覧 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 宮松丈夫『路面電車-チン・チンでんしゃ-走りつづけて90年-』195頁。
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 明治43年』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 『秋田市史』第4巻、369頁
- ↑ 「軌道特許状下付」『官報』1916年10月26日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『銀行会社要録 : 附・役員録. 25版』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 12.0 12.1 『秋田市史』第4巻、585頁
- ↑ 諸説(大正11年1月17日動力変更『鉄道省鉄道統計資料. 大正11年度』)あるが吉川は大正11年1月発行の秋田魁新報に掲載された電車開通の広告により1月21日を正としている「回想・秋田市電」114頁
- ↑ 『秋田市史』第4巻、586頁
- ↑ 「軌道特許状下付」『官報』1928年4月30日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 『日本全国諸会社役員録. 第39回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 秋田県多額納税者、土木建築請負業『人事興信録. 9版(昭和6年)』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 「軌道敷設権譲渡」『官報』1930年9月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軌道特許失効」『官報』1933年8月17日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軌道起業廃止」『官報』1939年10月11日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「軌道運輸営業廃止実施」『官報』1940年1月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ↑ 「回想・秋田市電」114頁
- ↑ 秋田市写真館 街の思い出 路面電車(秋田市企画財政部広報広聴課、2012年1月19日閲覧)に建都350年の花電車の写真がある。なお、秋田市公式ホームページ-「市民のかたへ」内「広報 映写室(動画配信)」コーナーに「秋田市ニュース 建都350年祭」の動画があり、後半に花電車が写っている。
- ↑ 写真を一見して車両限界を突破していることは明らかで(特に奥の2台目の電車)、いかなる許認可で運転したか不明。
- ↑ 『秋田県統計書. 第34回(大正5年)』では132,200
- ↑ 日本路面電車史 都市生活支えて百余年 秋田市電のラッセル車 1952(昭和27)年12月テンプレート:リンク切れ(毎日jp 毎日新聞社、2012年1月16日閲覧)の写真では、日本勧業銀行前の大町二丁目電停で20形25号がスノープロウを取り付けている。
- ↑ 『秋田市史』第4巻、366-367頁
- ↑ 吉川によると竣工図表には「日本車輌」とある。しかしこの時期の日本車輌が木造とはいえ僅か8年で車体更新となるような粗雑な車体を製造したことについては疑問があり、鉄道省へ提出した改造設計認可書類には「日本電機車輛の主電動機をウェスチングハウス製に交換」とあることから、実際の製造は日本電機車輛であったと見られている。他の日本電機車輛製の車両としては信貴生駒電鉄100形があるが、こちらも製造後わずか4年で休車、12年で「老朽化のため」廃車となっている。
- ↑ 29.0 29.1 和久田康雄『日本の市内電車 ―1895 - 1945―』93 - 95頁。
- ↑ 京都市交通局および監督官庁所蔵の資料では京都電気鉄道からの引き継ぎ車両はすべて「1918年(大正7年)製造」と引き継ぎされた年が製造年と記されており、製造メーカー・製造年を直接断定できる資料は発見されていない。
- ↑ 名義上のことで、実質的には部品を流用した新製である。