秋月悌次郎

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テンプレート:Infobox 人物 秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、文政7年7月2日1824年7月27日) - 明治33年(1900年1月5日)は、日本武士会津藩士)、教育者。名は胤栄、字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)と名乗る。婿養子・胤継は、漢学者(文学博士第六高等学校教頭、懐徳堂講師)。

略歴

丸山胤道の次男として若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校日新館に学び、南摩綱紀とともに秀才として知られた。天保13年(1842年)に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、また薩摩長州など諸国を渡る。

藩主・松平容保の側近として仕え、文久2年(1862年)に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。薩摩藩士・高崎正風らと計画を練り、会津藩と薩摩藩が結んだ宮中クーデターである八月十八日の政変を起こし、藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。後に佐幕派の反対を受け、慶応元年(1865年)には左遷されて蝦夷地代官となる。

その後に召喚されて薩摩藩との関係修繕を試みるが失敗。戊辰戦争では軍事奉行添役となり各地に出陣したが、専ら裏方として活動し戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には手代木勝任とともに会津若松城を脱出し米沢藩へ赴き、その協力を得て官軍首脳へ降伏を申し出た。また小川亮山川健次郎の2人の優秀な青年を、面識ある長州藩士の奥平謙輔に預けた。

会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり猪苗代において謹慎し、明治元年(1868年)には会津戦争の責任を問われ終身禁固刑となるが、明治5年(1872年)に特赦によって赦免される。同年、新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校熊本大学の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。

晩年は東京に住み、明治33年(1900年)、75歳で死去。墓所は東京都港区の青山霊園

人物

小泉八雲は、悌次郎の会津藩士としての熾烈な過去と、常に柔和で生徒の尊敬を集める人格を高く評価し「神が姿を表すとしたらこの老先生のような姿だろう」という意味のことを記述している[1]

参考文献

  • 松本健一『秋月悌次郎 老日本の面影』(作品社、昭和62年(1987年)/新版 中公文庫、平成25年(2013年)3月)
  • 司馬遼太郎「ある会津人のこと」、『余話として』(文春文庫)、『司馬遼太郎が考えたこと 8』(新潮文庫)に収録。
    • 初出は『オール讀物』(昭和49年(1974年)12月号)第29巻第12号
  • 徳田武『会津藩儒将 秋月韋軒伝』(勉誠出版、平成24年(2012年)3月)

秋月悌次郎を題材とした作品

脚注

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関連項目

  • 小泉八雲『東の国から』所収「九州の学生とともに」より(恒文社 新版:平成21年(2009年))