真田信尹

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テンプレート:基礎情報 武士 真田 信尹(さなだ のぶただ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将

父は武田信玄の家臣・真田幸綱(幸隆)で4男。同母兄に真田信綱・昌輝・昌幸がいる。大坂の陣で名を馳せた真田信繁(幸村)の叔父にあたり、後に松代藩となる大名真田家とは別に分家である旗本真田家を興した。

生年に関しては異説もあり、昌幸と同年に生まれたとなると同じ母の出生のため双子の可能性もある。

生涯

幼名は源次郎といい、昌幸と同じく幼年期から人質として甲府に出仕した[1]。主君の武田信玄の命により甲斐の旧族である加津野昌世の養子となり、名門・加津野氏(和野、鹿角)の名跡を継ぐ。隠岐守の官途を自称し、武田勝頼に近侍して槍奉行を務め、加津野市右衛門尉信昌と称した[1]。武田家では騎馬15、足軽10を率いる槍奉行としての地位にあったと「信玄代惣人数書上」『甲陽軍鑑』にはある[1]

元亀2年(1571年)1月、武田信玄が北条綱成の守る駿河深沢城を陥落させているが、これは信伊の武功によるところが大きかったと伝えられ、この際に綱成の「黄八幡」の旗指物を奪い取ったという[2]。昌幸と同じように武田家の竜朱印状の奉者を勤め、天正7年(1579年)6月25日付で二宮神主宛の居屋敷諸役免許状を出しており、武田家の家臣団の一翼を構成していた[2]

天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後に真田姓に復姓し、諱を「信尹」と改名する[2]

当初は北条氏に属し、天正12年(1584年)から徳川家康に仕えた[2]。兄・昌幸が北条家から徳川家に乗り換える際には間を取り持っている。徳川家では5000石を与えられ[2]、後に1万石に加増されるが「それだけの働きをしていない」として浪人する。一説に小田原征伐武蔵江戸城の無血開城で功績を立てたにも関わらず、家康からの恩賞に不満を覚えて家康の下を離れたとされている[2]

その後、池田輝政を介して会津蒲生氏郷に5000石で仕えるが、文禄4年(1595年)に氏郷が死去して蒲生騒動が起こったため、慶長3年(1598年)に再び徳川家康に甲斐で4000石を与えられて帰参した[2]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い、慶長19年(1614年)の大坂の陣で御使番・軍使として功績を挙げ、それにより1200石を加増されて5200石になる[2]

その後は幕臣として徳川家に仕え、寛永9年(1632年)5月4日に病死[2]。享年86。

息子の真田幸政以降、子孫は代々旗本として幕府に仕えた[2]。子孫は4つの系統に分かれ、その内の2家が明治維新まで存続した[2]

人物

武田滅亡後は真田本家とは別行動を取っていたが、上記の徳川・真田の橋渡し役以外でも絶えず昌幸の下に情報を送り続けたとされ、真田本家が生き残るための助力を分家として惜しまなかったと伝えられる。

大坂の陣では、家康が信尹に命じて「信濃国10万石を知行する」と言って豊臣側についた真田信繁を誘ったが一蹴された、という逸話がある(信尹ではなく真田信之という説や、石高も信濃40万石という説もある)。また、信繁の首の確認を行ったのも信尹であるとされる。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
  1. 1.0 1.1 1.2 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.71
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.72