特殊慰安施設協会
特殊慰安施設協会(とくしゅいあんしせつきょうかい)は、第二次世界大戦後、連合国軍占領下の日本政府によって作られた同軍兵士の相手をする売春婦(慰安婦)がいた慰安所である。
英語では テンプレート:En と言い、RAA の頭字語で知られた。直訳は「余暇・娯楽協会」であり、日本語の名称との間で意味が大きく異なる。
目次
概要
米軍は公娼制度を認めず慰安所を置かないことが判明しており、占領軍による日本の一般女性に対するレイプ事件が予測されたため、日本政府は「日本女性の貞操を守る犠牲として愛国心のある女性」(ニコラス・クリストフによる)を募集し、連合軍向けの慰安所を設立。総計55,000人(あるいは53,000人とも[1])が集まった[2]。
その後1946年に、ポツダム命令による公娼制度廃止の方針と、前アメリカ大統領(当時)フランクリン・ルーズベルト夫人エレノア・ルーズベルトの反対、加えて性病の蔓延を理由としてGHQにより特殊慰安施設は廃止された。特に性病に関しては、東京などを除けば衛生管理が不徹底だったため、敗戦の混乱と相俟って慰安婦の6割が梅毒など何らかの性病に罹患していた[1]。
RAAとは別に、米軍の女性兵士用の「慰安夫」も存在した。百瀬孝らによれば、昭和21年に名古屋に進駐した女性兵士用に採用された男性は、内臓、眼、皮膚、血液、尿の検査を受け、松坂屋近くの木造アパートに数名の男性と一人一室が与えられ、半年間特定の女性伍長の専属になった。勤務は一日置き。食料は潤沢に与えられたが、体力的には過酷だったという[3]テンプレート:Rp。
設立背景
- ヨーロッパの戦場で、米軍によるレイプの被害者が14000人(ドイツ人女性 11040人)いたこと[6]。第二次世界大戦当時、アメリカ軍は慰安所を設置しておらず、ノルマンディーに上陸したアメリカ軍が多数のフランス女性をレイプし、性交を行っている姿を見ないで街を歩くことが出来ないほどの状態になったためル・アーヴルでは市長が郊外に慰安所の設置をアメリカ軍指揮官に懇願したがアメリカ軍はこれを拒否している[7][8]。
- 沖縄戦では米軍上陸後、強姦が多発したこと。米軍兵士により強姦された女性数を10000人と推定する見解もある。“In Okinawa, US troops are estimated to have raped 10,000 Japanese women during World War II”。[9][† 1][10]
- アメリカ軍が日本に進駐した際、最初の10日間、神奈川県下では1336件の強姦事件が発生したこと[4]。占領直後の性的暴行や強姦の件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3500人以上の女性が連合軍兵士によって被害をうけた[11]。
上記に加えて、玉音放送以後の日本国内では、日本軍の海外での行動に基づいて、「敵は上陸したら女を片端から陵辱するだろう」という噂が拡がっていた[12][13]。警察の内部報告書は、「掠奪強姦などの人心不安の言動をなすものは戦地帰りの人が多いようだ」と述べている[14]。
国営売春所の設立まで
テンプレート:Quote box 占領軍の性対策については警視庁が1945年8月15日の敗戦直後から検討した[15]。
8月17日に成立した東久邇内閣の国務大臣近衛文麿は警視庁総監坂信弥に「日本の娘を守ってくれ」と請願したため、坂信弥は一般婦女を守るための「防波堤」としての連合軍兵士専用の慰安所の設営を企画した[16]。
8月18日、内務省は同省警保局長橋下政実によって「外国軍駐屯地に於る慰安施設について」[17](「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」[18][19])、および「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達し、警視庁は花柳界の団体と打ち合わせを行った[20]。
占領軍対策の一環として同月26日に外国軍駐屯地における慰安施設が設立された[18]。戦後の進駐軍の日本占領に当たり、日本の婦女子の操が進駐軍兵士らによって汚される恐れがある。それならば性の防波堤を作って一般婦女子を守りたい、との思惑からである[1]。
すでに占領直後に、占領軍がこの種の「サービス」を提供するよう命じたともいわれ、1945年8月22日付で発令された内務省警保局「連合軍進駐経緯ニ関スル件」という文書の最後の項目に「聯合軍進駐ニ伴ヒ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋ヲ要求シ居リ」と記されている[21]。また、同日には、連合軍の新聞記者からも「日本にそういう施設があることと思い、大いに期待している」との情報が伝えられていた[22]。また佐官級の兵士が東京丸の内警察署に来て、「女を世話しろ」ということもあった[23]。
同月26日には「特殊慰安施設協会」が設立された。資本金は1億円で、その内の5500万円は大蔵省の保証により日本勧業銀行が融資している[20][1]。池田勇人は資金の調達に関して特に大きく尽力した[1]。建設に必要な資材や、営業に必要な生活什器、衣服、布団、そして約1200万個のコンドームは東京都と警視庁が現物提供した[20][1]。
翌27日には大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に指定した。神奈川方面に米軍基地が集中することを予測されていたため、京浜国道沿いの小町園が選ばれたのである[20]。翌28日にはRAA幹部が皇居前で宣誓式と万歳三唱を行った。国営売春の端緒である[20]。同じ日に進駐軍の先遣部隊が厚木に到着し[1]、小町園で性交した[20]。翌日以降も早朝から多くの米兵が詰めかけた[20]。
RAA関連施設の設置場所
1945年8月27日に大森海岸の料亭「小町園」を慰安所第一号に指定したのを皮きりに、慰安部、特殊施設部、キャバレー部などが開設されていった[1]。東京都内では終戦3ヶ月以内に25箇所の慰安所が開設されている[1]。RAAの施設は、東京・横浜をはじめ、熱海・箱根などの保養地、大阪、愛知県、広島県、静岡県、兵庫県、山形県、秋田県、岩手県など日本各地に設置されていった[24]。
協会事務所
設置年月は不明だが、RAAの本部事務所は東京都京橋区銀座七の一(現在の中央区銀座南部)の東京歌舞伎座に置かれた。世間体を憚って日本野球連盟に事務所を借り受けさせ、RAAは全額家賃を負担してその1室を使用していた。この差配は佐藤甚吾が川島正次郎を仲介者に日本野球連盟会長の鈴木龍二と折衝して決めたとされる[25]。
東京周辺
東京には高級将校用慰安所としては、1945年10月20日に墨田区向島に「迎賓館大蔵」が、同11月に世田谷区若林に「RAAクラブ」の二箇所が設置された[24](1946年8月、占領軍により接収)。一般兵士用慰安所としては、東京都品川区大森海岸に、小町園、楽々、見晴、波満川、蜂之喜、花月、やなぎ、乙女、清楽、日の出などの割烹旅館が、多摩地区では福生営業所(福生町)、調布園(調布町)、西多摩郡三田村には「楽々ハウス」(キャバレーも兼ねる)などが、立川市にはキャバレー富士、三鷹町にはニューキャッスル(キャバレーも兼ねる)などが慰安所として設置された[24]。
慰安所の他に、RAAではキャバレーやビヤホールも設置され、そこで日本人女性と出会うような仕組みとなっていた。銀座のキャバレーとしては千疋屋[24]、「オアシス・オブ・銀座」、木挽町の歌舞伎座別館にはクラブエデンが開設され、他、銀座のビヤホールとしてはエビスビヤホールなどが開設され、このほか港区高輪のパラマウント、赤羽の赤羽会館(赤羽キャバレー)などがRAA関連施設として開設された[24]。なお、これらのRAA施設の他、花柳街など民間の風俗施設も興隆し、たとえば東京中野区の新井町の花柳街は占領軍一色であった[24]。
また救世軍は1947年4月に東京都の委託で立川に「特殊婦人保護施設 新生寮」、同年6月に大阪府の委託で「西成朝光寮」を開設している[26]。
熱海・箱根
熱海では将校用慰安所として熱海観光閤(当初は風喜荘)が開設され[27]、初代所長はRAA常務理事をつとめた佐藤甚吾であった[27]。一般慰安所としては、玉乃井別館が開設された。この旅館には1946年2月に作家の高見順が久米正雄、中山義秀と宿泊しようとした際、RAA旅館に日本人は宿泊できないために日系二世を名乗って宿泊している[28][27]。ほかにキャバレー・ニュー・アタミがあり、ここは地元で大湯ダンスホールとも呼ばれ、日本人も利用できた[27]。富士屋本館もRAA関連施設であった[27]。米第八軍に接収された熱海ホテルには「a special service hotel」と掲げられていた[27]。
箱根では常磐ホテルが特殊慰安所であった[27]。富士屋ホテル、強羅ホテルでも米第八軍の「スペシャル・サービス班」が関与していた[27][29]。
大阪・名古屋
大阪では右翼団体の国粋同盟(総裁・笹川良一。戦前の国粋大衆党をルーツに持つ)が連合軍慰安所アメリカン倶楽部を1945年9月18日に開業した[24]。
名古屋では国際高級享楽ナゴヤクラブが開設され、募集には680名の女性が殺到した[24]。
RAAの運営
他に生活の術の無い戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、東京都内だけで約1600人、全国で4000人の慰安婦が働いており、RAA全体では5万3000人の女性が働いていたとみられる[1]。慰安婦は一日あたり30人から50人の客を取っていた[20]。収入に関しては、ドル高もあり実入りは良く、大森海岸の小町園の慰安所では、当時の金額で月収が5万円にのぼる売春婦もみられた[† 2][20]。1945年12月時点で在日連合軍は43万287人駐屯していた[30]。
募集
RAAの基本的な発想は戦時中の慰安所施設だが、戦時中の慰安婦と違う点は、仲介業者を通さずに、広告に応じてきた一般女性たちを使ったことである[20]。当初は水商売の者を雇う予定であったが、思うように人数が集まらなかった[20]。戦時中に青線売春で検挙した者へ、慰安婦になるよう警察が要請した例すらあった[31]。戦時中にあった女子青年団が終戦後、半ば強制的に集められたケースもあるとされる[32]。
「新日本女性求む、宿舎、衣服、食料すべて支給」などと書かれた広告板を銀座などに設置し、また新聞広告で一般女性を募った。一日あたり約300人が応募した[20]。広岡敬一によれば、内容の詳細は広告に記載されておらず、これを見てやってきた女性の多くは水商売の経験のないもので、大半は仕事の中味を聞いて去っていったとされる[20]。
新聞広告
毎日新聞1945年9月4日には テンプレート:Quotation 東京新聞同日には テンプレート:Quotation
といった広告があり、当時は連日出されていた[24]。
なおRAA施設に便乗して開業された銀座メリーゴールドなどのような民間慰安施設に対して警視庁は「慰安婦の求人注意方の件」という通達を出し、不正な紹介などのないように指示している[24]。
RAA設置後の状況
GHQ軍医総監による要請と東京都令第一号
占領軍はRAAだけでは満足できずに、GHQの軍医総監と公衆衛生福祉局長サムス大佐が9月28日に、東京都衛生局防疫課長与謝野光に対して、都内で焼け残った花街5カ所と売春街17カ所に触れながら、占領軍用の女性を世話してくれと要求した[33][34]。また、与謝野光は将校、白人兵士、黒人兵士用の仕分けの相談も応じた[35][36]。
GHQは「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはいけない」と性病検診を命令し、与謝野はこれを受けて東京都令第一号と警視庁令第一号で性病予防規則を制定し、週一回の強制検診を実施した[37]。都は、10月22日に「占領軍兵士を相手にする女性の性器の洗浄と定期的な検診の義務付け」を盛り込んだ規則を制定した。これが、戦後都政が発令した第一号の条例である[20]。
RAA廃止へ
1946年3月26日には連合国軍東京憲兵司令官官房「進駐軍ノ淫売窟立入禁止ニ関スル件」(オフ・リミッツ令)と通達され[24]、RAA施設は閉鎖された。ただし、1948年4月時点で歌舞伎座の本部事務所はまだ残っており[25]、公娼施設としての協会組織から赤線経営者の組合組織に変更して存続したとするのが妥当である[38]。 RAA閉鎖後、職を失った女性の中にはパンパンと呼ばれる街娼になったり、風俗街に移動したものがいた[24]。
国を挙げて売春を行う目的は、「日本女性の純潔を守る」ことであった。実際、特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件で[5]、特殊慰安施設協会が廃止された後の、1946年前半の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数で330件だった[5]。しかし、複数の文献で、日本女性の純潔は守れなかった、とされている[20][1]。
RAA設置中の性犯罪
進駐軍は横須賀や横浜をはじめ、民家に侵入し日本人女性を強姦する事件が多発した[39][40]。1945年9月2日開業予定の小町園慰安所には、同年8月28日、マシンガンで武装したアメリカ軍兵士達が乗り込みすべての慰安婦たちを強姦した[41][20]。他にも、1945年9月5日に武装した米兵が鳩の街に来ている。このとき売春婦たちがおびえたため、業者は売春婦たちにウンと言わせ、客を取らせた。この後、これに続くように進駐軍の兵士は吉原や新宿二丁目の遊郭へ行き始めた[20]。
横浜のある慰安所では、100名を超える武装したアメリカ兵が開業前日の慰安所に乗り込み慰安婦14名を輪姦した[41]。さらに翌日、抵抗した慰安婦を米兵が絞殺するという事件が起こり、開業二日目で閉鎖された。開業後の慰安所では、どの部屋からも男たちの笑い声と女性たちのすすり泣く声が聞こえていた。精神を患う慰安婦、自殺する慰安婦も少なくなかった。9月1日には野毛山公園で日本女性が27人の米兵に集団強姦された[39]。9月5日には神奈川県の女子高校が休校した[39][42]。しかし、9月19日にGHQがプレスコードを発令して以後は連合軍を批判的に扱う記事は新聞で報道されなくなった[39]。
武蔵野市では小学生が集団強姦され、大森では病院に2〜300人の米兵が侵入し、妊婦や看護婦らが強姦された[39][43]。その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の占領軍兵士による日本人女性の被害届けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目ゆきは占領とは「日本人女性に対する米軍の性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[44]。
日本人婦女子凌辱事件
慰安所の開設後も数多く発生した進駐軍の不法行為を、特別高等警察は解散命令の出る1945年10月4日まで調査を続け、そして内務省警保局外事課より「進駐軍ノ不法行為」として文書化された。この米軍にとって不名誉な文書は一旦没収されたが、1973年12月に日本へ返却、翌年1月より国立公文書館に所蔵されていた[45][46][† 3]
日本共産党は米軍の不法行為を追及していたが[47]、特高が作成したこの文書には触れていない。
RAA廃止後の性犯罪と狩り込み
性病対策として1945年11月には京都で、1946年1月28日には東京で「狩り込み」とよばれる売春女性の検挙が、太平洋陸軍憲兵隊司令部(MP)によって行われた[24][48]。
板橋事件
1946年11月15日には池袋で、MPと日本の警察により、通行人であった女性たちが無差別に逮捕され、吉原病院で膣検査を強制された板橋事件が発生している[48]。女性のなかには日本映画演劇労働組合員だった女性が含まれており、同組合は抗議運動を展開し、新聞などでも報道され、加藤シヅエら議員もGHQに抗議の手紙を送るなどした[48]。
こうした抗議に対してMP側は「狩った女たちをどんなふうにしようとこっちの勝手だ。それに対してお前たちは抗議などできない」「日本の警察は現在全然無力である。之は自分たちの命令に絶対服従すべきである」と発言したといわれる[24][49]。
なお、CIE(民間情報教育局)やユナイテッドプレスなどはMPでなく日本の警察による仕業として人権侵害であると非難した[48]。
中野の連行未遂事件
1948年9月20日には中野区で買い物をしていた女性がMPに連行されかけた。この件で抗議をうけた警視庁は、連行したのはPM0720部隊のMPで、日本の警察は一切関与していないと答えている[48]。また当時MPのジープに同乗し、「MPライダー」と称されていた日本の警官の証言によれば、狩り込みはMP主導で行われていたという[48][50]。
当時の知識人の見解
賀川豊彦は『婦人公論』1947年8月号で「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンについては「わざと悪に接近」するような悪魔的なところがあり、「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と指摘している[26]。
その後
朝鮮戦争時
その後、朝鮮戦争では韓国人女性が慰安婦として集められる(#大韓民国軍慰安婦、#「特殊慰安隊」設置 を参照)とともに、日本人慰安婦も在日米軍基地周辺、そして朝鮮半島へ連れて行かれた[51][52]。
サンフランシスコ講和条約後
1951年9月8日に連合国諸国とサンフランシスコ講和条約を締結し[53]、関係諸国との請求権問題を解決し、また同時に在日米軍の駐留が容認された[54]。
しかし、その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月の警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51,暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校の四年生の女子児童が強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児が強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[55]。1952年の奈良の慰安施設RRセンターでは2500名の慰安婦がいた[56]。
市民運動における「醜業婦」観
日本の運動側には「醜業婦」観があり、たとえばYWCAの植村環は『婦人公論』(1952年5月号)で「アメリカの寛大な統治を悦び、感謝しており」とする一方で慰安婦たち「卑しい業を廃めさせ」るよう要求したり、「パンパン」を「大方は積極的に外人を追いかけて歩き、ダニのように食いついて離れぬ種類の婦人」と述べたり、「あんなに悪性のパンパンに対しては、白人の方だって、あの位の乱暴は働きたくなりますさ」などと語るなど[57]、売春問題を買う男ではなく売る女性の方を問題としていた[58]
GIベビー
テンプレート:Main 占領軍兵士と日本人女性との間の混血児をGIベビーといい、1953年の厚生省調査によると国内で4972人が確認された[59]。パール・バック財団の調査によると少なくとも2-3万人にのぼるともいわれ、ほかにも沢田美喜のように20万とする説もある。
特殊慰安施設協会を題材にした作品
- 小説
- 映画
- テレビドラマ
1995年8月18日21時から、フジテレビの金曜エンタテイメント枠にて「戦後50年特別企画 女たちの戦争 忘れられた戦後史 進駐軍慰安命令」として放映された。
- マンガ
脚注
注釈
出典
参考文献
- 警察資料
- 1950年代以降
- 山田盟子 『占領軍慰安婦―国策売春の女たちの悲劇』 ISBN 476980623X
- 『日本の貞操―外国兵に犯された女性たちの手記』(蒼樹社1953)の改題再刊
- 『続・日本の貞操』(蒼樹社1953)の改題再刊。後の著作の反欧米感情の原点。
- 田中貴美子『女の防波堤』 第二書房、1957。
- 川元祥一 『開港慰安婦と被差別部落―戦後RAA慰安婦への軌跡』 ISBN 4380972682
- 1980年代以降
- 水野浩編『死に臨んでうったえる』倒語社、1982
- 神田文人『昭和の歴史第八巻 占領と民主主義』小学館 1983
- 粟屋憲太郎他『敗戦時全国治安情報』ISBN 4820562150
- 五島勉編『黒い春―米軍・パンパン・女たちの戦後』 倒語社、1985。
- タモツ・シブタニ『流言と社会』東京創元社
- 千田夏光『従軍慰安婦』正編、三一書房 1988
- ドウス昌代 『マッカーサーの二つの帽子』 ISBN 4061835734
- 『敗者の贈物―特殊慰安施設RAAをめぐる占領史の側面』(ISBN 4062631350)改題
- 半村良 『昭和悪女伝』(実録小説)ISBN 4087740935 ISBN 408748677X
- 藤目ゆき『冷戦体制形成期の米軍と性暴力』「女性・戦争・人権」第2号[1]
- 藤目ゆき『性の歴史学 公娼制度・堕胎罪体制から売春防止法・優生保護法体制へ』不二出版、1997年3月
- テンプレート:Cite book
- 『占領と性』(恵泉女学園大学平和文化研究所編集、インパクト出版会、2007年)
- テンプレート:Cite book
- 地域史
- 洋書
洋書の多くは、戦時中の慰安婦に関するものの中で言及。
- Yoshimi, Yoshiaki(吉見義明) Comfort Women: Sexual Slavery in the Japanese Military During World War II, Columbia University Press, 2001. ISBN 023112032X
- Michael S. Molasky(マイク・モラスキー) American Occupation of Japan and Okinawa, Routledge, 1999. ISBN 0415191947 ISBN 0415260442
- Tanaka,Toshiyuki(田中利幸) Japan's Comfort Women: Sexual Slavery and Prostitution During World War II and the US Occupation(「日本の慰安婦」), London, Routledge: 2002. ISBN 0415194016.
関連項目
外部リンク
- 被占領心理―肉体の戦士R.A.A.と官僚的「合理性」(明治大学川島高峰政治学研究室)
- 特殊慰安施設協会 - はてなダイアリー
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