渾作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

渾作戦(こんさくせん)とは太平洋戦争大東亜戦争)中の日本軍の作戦。ビアク島の戦いを支援するための作戦で、3次にわたり行われたが、アメリカ軍マリアナ諸島襲来により中止された。

経過

背景

1944年2月にアメリカ軍はラバウルから北西に位置するアドミラルティ諸島マヌス島を攻略し、同年4月22日にはホーランジアアイタペに上陸、占領した。続いてアメリカ軍はマリアナ諸島攻略支援のためニューギニア西部のビアク島攻略を決めた。ビアク島はパラオから約1,000キロ、ダバオから約1,500キロに位置し、日本軍が設営した飛行場があった。アメリカ軍はまず、ワクデ島を攻略し、そこの飛行場を利用してビアク島を攻略することとし、1944年5月18日にワクデ島に上陸した。日本軍の守備隊は約500名であり、19日には島は占領された。

5月27日、アメリカ軍はビアク島へ上陸を開始した[1]。日本軍の守備隊は歩兵1個連隊基幹の約12,000名であった。

日本軍内部での議論

27日19時5分、豊田副武連合艦隊司令長官は第一航空艦隊に対して、ヤップ島に配備された第三攻撃集団をニューギニア島北端ソロン方面に移動するように命じた。その後、5月28日、南方軍と南西方面艦隊の合同意見としてビアク島へ増援の地上部隊を逆上陸させる構想が具申された。

陸軍はホーランジア戦で陸軍第四航空軍隷下の第六飛行師団が壊滅したため、5月2日の御前会議後、南方軍命令により絶対国防圏からビアク島を除く決定をしていた[2]が、海軍からの強い要望があった。参謀本部作戦参謀だった瀬島龍三は「兵力を投入してもビアク持久は時間の問題である。「あ号」作戦を放棄することにならないか」と疑念を示していたが、参謀総長を兼職していた東条英機は賛成したと言う[3]。海軍では連合艦隊航空乙参謀多田篤次はビアク失陥は「あ」号作戦の意義を失わせるとして第一機動艦隊全力のビアク投入を主張した[4]。一方、第一航空艦隊の参謀であった淵田美津雄が米海軍により進められている中部太平洋ルート上に位置するマリアナへの進攻は、ビアク作戦の如何に関わらず実施されるとして兵力の引抜を憂慮していた[5]

このように当時、絶対国防圏構想を元に「あ」号作戦を計画済みであった海軍、そして陸軍内部でもマリアナ諸島、パラオ諸島、西部ニューギニアのどこにアメリカ軍が侵攻してくるのかや、その対応について意見は分かれていたが、いずれにしてもビアク島を喪失すればフィリピンの南部や東部蘭印が空襲に晒されるだけでなく、パラオ諸島の制空権が揺るぎ「あ号作戦」の成否に関わるため、5月29日夜大本営陸軍部も同意し、即刻豊田長官より渾作戦が発令された[6]

その後も海軍航空兵力の移動は続く。6月3日午後2時21分、連合艦隊電令第114号により「第五基地航空部隊指揮官は、直率の第二攻撃集団を春亀[7]方面に集中配備せよ」との命令を出していた。第二攻撃集団はマリアナに配備されていた部隊であったが、この命令を受けて西方に移動を開始した[8]

第一次渾作戦

南西方面艦隊は意見具申の前の5月24日には南方軍よりミンダナオ島ザンボアンガにいた陸軍の海上機動第2旅団の海上輸送協力について打診されていた。渾作戦に当たりこれが増援部隊として選ばれた。同旅団は、もともと逆上陸作戦の専門部隊として編成された部隊で、ニューギニア方面へ向かう途中で輸送船が攻撃を受けてミンダナオ島へ待機中だった。

5月29日、日本側においてはニューギニア方面部隊よりニューギニア中部北岸のホーランジアフンボルト湾に敵艦隊発見の報告があった[9]

6月2日、増援部隊を乗せた艦隊はミンダナオ島ダバオを出発し、ビアク島へ向かった。艦隊は以下の編成で左近允尚正少将が指揮した。

3日、部隊は敵哨戒機に発見された。さらに、陸軍の偵察機からアメリカ機動部隊発見の報告があったため、部隊は作戦を中止してソロンへ向かうよう命じられた。ソロンに到着すると陸軍部隊は揚陸され、艦隊は退避した。その後、機動部隊発見は誤報と判明したが、後の祭りだった。

第二次渾作戦

増援作戦は再開されたが、高速の駆逐艦だけによる輸送に切り替えられることとなった。旅団全部隊を一度に輸送することは不可能のため、約600人が第一陣として運ばれることになった。

8日3時、部隊は駆逐艦「敷波」、「浦波」、「時雨」、「白露」、「五月雨」、「春雨」の6隻で再度ソロンから出撃した。12時30分、B-25による空襲を受け春雨が沈没したが、部隊はそのままビアク島へ向かった。22時頃、重巡「オーストラリアHMAS)」、軽巡「ボイシ」、「フェニックス」、駆逐艦14隻からなる連合軍艦隊と遭遇した。連合軍艦隊からのレーダー射撃を受けたため退避行動に移り、連合軍艦隊も高速発揮できる巡洋艦艦隊であったが、かろうじて離脱に成功した。しかし、日本艦隊は至近弾などで損傷し、輸送も中止された。

第三次渾作戦

2度の失敗から、連合艦隊司令部ではビアク方面の水上部隊を排除しない限りビアク突入は不可能と判断し、10日未明の決定により兵力が強化され、以下の艦艇で3度目の作戦が行われることとなった[10]。なお、淵田、奥宮は大和型戦艦2隻を投入したのは「あくまで敵機動部隊を誘い出す為の窮余の一策」だと述べている[11]

  • 攻撃部隊:戦艦「大和」、「武蔵」、重巡「妙高」、「羽黒」、軽巡「能代」、駆逐艦「沖波」、「島風」、「朝雲」
  • 輸送部隊:重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「満潮」、「野分」、「山雲」、敷設艦「津軽」、「厳島」、第36号駆潜艇、第127号輸送艦
  • 補給部隊:タンカー第2永洋丸、第37号駆潜艇、第30号掃海艇

部隊は6月12日、指定されたソロン沖バチャン泊地に集結した。しかし、11日にはアメリカ機動部隊がマリアナ諸島へ来襲したため、豊田長官は13日17時27分「あ」号作戦決戦用意を発令し、渾作戦は中止された。陸軍部隊はそのままソロンへ残置された。

その後

マリアナ沖海戦の前哨戦となる作戦であったものの、日本軍側の優柔不断とも言える作戦指導から、何も得るところ無く終わった。「あ号作戦」のために準備していたガソリン、重油など貴重な資源を消費してしまう。

また、日本軍側はホーランジア戦ビアク島戦の過程でニューギニアに元々配置されていた航空、陸上戦力が大損害を受けていた。第六飛行師団の壊滅後は第七飛行師団が亀地区の防空を担当していたが、ビアク島に米軍が上陸した時点で第六飛行師団残存機を合わせても70機余りの作戦機しかなかった[12]

更に、上記連合艦隊電令第114号により移動していた第二攻撃集団は11日、第三攻撃集団は14日に西カロリン方面に配備するよう命じられたが、ビアク方面での作戦消耗、及びマラリアなどより実働兵力は大きく低下していた。

このため、外山三郎は「特に渾作戦のために西方に移動させられた部隊が戦機を失し、かつ戦力も低下したことは、「あ号」作戦に重大な影響を与える要因となるのである。」と述べている[13]。もっとも、戦局に重大な影響を与える航空機の数でアメリカ軍に及ばず、テンプレート:要出典範囲。また、マリアナに対して米海軍が攻撃を開始したのは11日であったのに対して、第一機動艦隊が補給を完了しマリアナに態勢の整った進撃を開始したのは17日以降であったことを捉え、「遅動部隊」と言う酷評を挙げて批判する者も存在する[14][15]

いずれにしろ、この後、日本海軍はマリアナ沖海戦に敗北した。ニューギニアは制空権、制海権ともに連合軍が握ったため、日本軍は増援ばかりか撤退も難しくなった。また、それまで安全であった原油産地の蘭印方面も連合軍の空襲を受けるようになった。陸軍報道班員の手記によれば、ビアクの将兵には失望が広がり、士気は低下したと言う[16]

脚注

  1. 上陸時点で日本側が把握した偵察情報は下記の通り。なお、参照資料では26日となっているが上陸を実施したのは27日である。
    上陸兵力:1個師団
    敵艦隊兵力:戦艦2、空母2、巡洋艦4、駆逐艦14、輸送船8、小型艦艇数10
    遊弋地点:ボスネック湾沖合
    淵田美津雄奥宮正武「第二部 第7章 戦機動く」『機動部隊』P311 学研M文庫版 2008年10月(初出1951年9月)
  2. 5月2日の絶対国防圏引き下げについては
    田村洋三「第八章 あ号作戦と渾作戦」『玉砕 ビアク島 ”学ばざる軍隊”帝国陸軍の戦争』P143 光人社NF文庫 2004年(単行本2000年)
  3. 瀬島と東条の姿勢については「第八章 マリアナ沖海戦」半藤一利 秦郁彦 横山恵一『日本海軍 戦場の教訓』P317-318 PHP文庫
  4. 多田は航空兵力の中心が基地航空部隊であるため、敵に基地の進出を許すわけにはいかないと考えていた
  5. 多田、淵田の見解については
    淵田美津雄、奥宮正武「第二部 第7章 戦機動く」『機動部隊』P313-314 学研M文庫版
  6. ビアク方面への増援方針の全般経緯については下記
    外山三郎「第九章 マリアナ沖海戦」『図説 太平洋海戦史3』P106 光人社 1995年
    田村洋三「第九章 米軍来襲」『玉砕 ビアク島 ”学ばざる軍隊”帝国陸軍の戦争』P197 光人社NF文庫 2004年(単行本2000年)
  7. 日本軍はニューギニア島を西に向けて泳ぐ亀に見立て、亀地区とはニューギニア西北部、春亀とは亀の頭の北西に位置するハルマヘラ島周辺を指した。
    田村洋三「第四章 ビアク支隊」『玉砕 ビアク島 ”学ばざる軍隊”帝国陸軍の戦争』P86 光人社NF文庫
  8. 第二攻撃集団の移動命令については
    外山三郎「第九章 マリアナ沖海戦」『図説 太平洋海戦史3』P106-107
  9. 在泊艦艇:巡洋艦4、駆逐艦8、輸送船中型9、小型10
    港外:駆逐艦9、輸送船9から成る船団航行中
    淵田美津雄奥宮正武「第二部 第7章 戦機動く」『機動部隊』P316 学研M文庫版
  10. 田村洋三「第十二章 渾作戦は来ぬ作戦」『玉砕 ビアク島 ”学ばざる軍隊”帝国陸軍の戦争』P220 光人社NF文庫
  11. 淵田美津雄、奥宮正武「第二部 第8章 敵機動部隊マリアナ沖へ来襲」『機動部隊』P330 学研M文庫版
  12. 田村洋三「第九章 米軍襲」『玉砕 ビアク島 ”学ばざる軍隊”帝国陸軍の戦争』P167 光人社NF文庫
  13. 外山三郎「第九章 マリアナ沖海戦」『図説 太平洋海戦史3』P109
  14. 吉田昭彦(元1等海佐)「幻の攻撃目標『15リ』」『波濤』1993年7月
  15. 「桜庭日誌(抄録) 帝国海軍のアキレス腱「防御」に挑戦した隼鷹内務長桜庭少佐の記録」『波濤』1997年3月
    「6月10日:渾作戦は全く失敗。やることなすこと手遅れ。(中略)昨日大鳳より緊急信あり。大和、武蔵など渾部隊に編入さる。やることなすこと手遅れ。悪謀無能これ日本陸海軍の状況か。今頃行ってもビアク飛行場は敵手に入った以上何になるか。」
    なお当時隼鷹タウイタウイにあった。
  16. 田村洋三「第十二章 渾作戦は来ぬ作戦」『玉砕 ビアク島 ”学ばざる軍隊”帝国陸軍の戦争』P221-222 光人社NF文庫

参考文献

  • 田村洋三『玉砕 ビアク島 ”学ばざる軍隊”帝国陸軍の戦争』 光人社NF文庫 2004年(単行本2000年)
  • 外山三郎「第九章 マリアナ沖海戦」『図説 太平洋海戦史3』 光人社 1995年
  • 淵田美津雄、奥宮正武「第二部 第7章 戦機動く」『機動部隊』P311 学研M文庫 2008年10月(初出1951年9月)

関連項目

テンプレート:Campaignbox-bottom