洪明甫
テンプレート:サッカー選手 洪 明甫(ホン・ミョンボ、홍명보、1969年2月12日 - )は、韓国の元サッカー選手、サッカー指導者。韓国、ソウル出身。現役時代のポジションはセンターバック、ディフェンシヴハーフ。元韓国代表監督。
来歴
韓国代表史上最多の136キャップを誇り、ワールドカップには1990年イタリア大会から4大会連続で出場。2002年日韓大会ではブロンズボール賞に輝いた[1][2]。2004年3月にペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人に選出された。
Jリーグではベルマーレ平塚、柏レイソルに在籍。1999年は外国籍選手ながら柏レイソルのキャプテンを任され、ナビスコカップ優勝に貢献した。
2004年に現役を退いた後、2005年10月、ディック・アドフォカート監督の下、韓国代表アシスタントコーチに就任し、2006年ワールドカップに参加。アドフォカート退任後に就任したピム・ファーベーク監督の下でも同職を務め、AFCアジアカップ2007に参戦した。2007年から2008年までU-23韓国代表のアシスタントコーチを務めた後、2009年にU-20韓国代表の監督に就任。U-20ワールドカップ2009年大会で同代表をベスト8に導いた。2009年10月、その実績を認められオリンピック韓国代表の監督に就任。ロンドンオリンピックで韓国サッカー史上初となる銅メダル獲得の快挙を果たした。
ロンドンオリンピック後は、2013年1月から2002年ワールドカップ韓国代表監督だったフース・ヒディンクが率いるロシアプレミアリーグのアンジ・マハチカラで指導者研修を受けた。2013年6月26日、2014年ワールドカップ予選突破後に退任した崔康熙の後任として、韓国代表監督に就任した。契約では2014年ワールドカップだけでなく、2015年1月のアジアカップまで韓国代表を率いることとなっている[3]。2014年、ワールドカップ本戦は1分2敗でグループリーグ最下位で敗退し、大韓サッカー協会に辞意を伝えたが7月3日に協会は洪の続投を決定[4]した。しかし、10日になり一転して辞任することを表明した[4]。ワールドカップ敗退後に選手たちと会食した時の映像が流出した[5]ことや、代表メンバー選考において個人的な関係を優先した「義理起用」[6]などで批判報道に晒されていた。
エピソード
背番号
韓国代表や、湘南・柏といったクラブチームでは「20」を好んで付けていた(ベルマーレ入団時は途中入団だったため「37」)。特にレイソルでは、洪の退団後は20をつける選手は「ポスト・ミョンボ」として期待されるという、特別な意味を持つ番号になっている(2002年から2005年まではディフェンダー・永田充、2006年から2009年8月までは在日韓国人4世(当時)のフォワード・李忠成が付けていた。2010年はU-12からの生え抜きである茨田陽生が身に付ける)。 ロサンゼルス・ギャラクシーでは「18」、「20」は当時のエースストライカーカルロス・ルイーズが着けていた。
米国での登録名
ロサンゼルス・ギャラクシー在籍時の登録名は「BO」であった。リーグ戦でも選手名として背中に「BO」と書かれたユニフォームを着用してプレーした。これは彼の名前の英語表記「Hong Myung Bo」のうち「Bo」がファミリーネームであると勘違いされた事務手続上のミスであると言う説(ファミリーネームが「Hong」、ファーストネームが「Myung Bo」)と、在米韓国人や中国人でファーストネームの1文字めを呼び名とすることがあるが「Myung」が発音しにくかったからと言う説がある。しかし彼自身はこれを不快と捉えていないようであり、2003年に母国韓国で開催されたピースカップにギャラクシーの一員として参加した際、リーグ戦と同様に「BO」のネームの入ったユニフォームを着用しプレーしている。また引退後、サッカーを通じた慈善活動として「BO基金」を設立したほか、米国・カリフォルニア州に開設したサッカースクールの名称も「BOサッカーアカデミー」である。
その他
- 日本サッカー協会の若手育成システムやJリーグの運営法に好意を抱いており、「大韓サッカー協会は日本のサッカー協会から多くのことを学ぶ必要がある」との見解を示している。また、有望な韓国人サッカー選手が、相次いでJリーグへの進出を志望していることに対しては「Jリーグに行ってコンビニの弁当を食べながら、トレーニングする状況を選択してはいけない」「若いころから日本に渡ると、私生活で壁にぶち当たり、自分のレベルを引き上げるのが難しくなる」と警鐘を鳴らしている[7]。
- 自身の出来事を高校の選手権時代から振り返り、また当時在籍していたJリーグで体験した事を韓国のスポーツ新聞で連載した『洪明甫のJリーグ短信』を綴った『LIBERO 洪明甫自伝』が日本では集英社から出版されている。また2002 FIFAワールドカップ開催前、漫画家のむつ利之が洪をモデルにして描いた漫画が講談社「週刊少年マガジン」の読切り漫画で掲載。この作品は後にKBS第2テレビのバラエティー番組『スポンジ』にて本人証言で紹介された。
- 韓国メディアは、若手の韓国人ディフェンダー(特にJリーグに移籍する選手)に対しては、期待を込めて「洪明甫二世」という呼び方をすることがあるテンプレート:要出典。朴景晥、曺秉局、林裕煥、李康珍、裴乗振、金英權などが該当する。
- 洪明甫が設立した財団「洪明甫財団」は子供サッカー教室支援、有望な若手選手の発掘・育成・奨学金支援などを行なっている。洪明甫は慈善活動や社会貢献活動で有名なスポーツ人の一人である。
所属クラブ
- テンプレート:Flagicon 高麗大学校
- 1992年 - 1997年 テンプレート:Flagicon 浦項アトムス/浦項スティーラース
- 1997年5月 - 1998年 テンプレート:Flagicon ベルマーレ平塚
- 1999年 - 2001年 テンプレート:Flagicon 柏レイソル
- 2002年 テンプレート:Flagicon 浦項スティーラース
- 2003年 - 2004年11月 テンプレート:Flagicon ロサンゼルス・ギャラクシー
個人タイトル
個人成績
テンプレート:サッカー選手国内成績表 top テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1992||rowspan="6"|浦項||||rowspan="6"|Kリーグ||29||1||8||0||colspan="2"|-||37||1 |- |1993||||11||1||1||0||colspan="2"|-||12||1 |- |1994||||17||4||0||0||colspan="2"|-||17||4 |- |1995||||24||1||7||0||colspan="2"|-||31||1 |- |1996||||29||7||5||0|||||||| |- |1997||||0||0||6||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |1997||rowspan="2"|平塚||37||rowspan="2"|J||10||0||0||0||3||1||13||1 |- |1998||rowspan="4"|20||32||0||0||0||2||0||34||0 |- |1999||rowspan="3"|柏||rowspan="3"|J1||28||5||5||2||4||2||37||9 |- |2000||29||2||2||0||2||0||33||2 |- |2001||15||0||3||0||0||0||18||0 テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2002||浦項||||Kリーグ||19||0||0||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 th |- |2003||rowspan="2"|ギャラクシー||||rowspan="2"|MLS||25||0||||||2||0|||| |- |2004||||13||0||||||0||0|||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算始129||14||27||0|||||||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行114||7||10||2||11||3||135||12 テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算行38||0||||||2||0|||| テンプレート:サッカー選手国内成績表 通算終281||21|||||||||||| |}
指導歴
- 2005年10月 - 2007年 テンプレート:Fb アシスタントコーチ
- 2007年 - 2008年 テンプレート:Fbu アシスタントコーチ
- 2009年 テンプレート:Fbu 監督
- 2009年10月 - 2012年 テンプレート:Fbu 監督
- 2013年6月 - 2014年7月 テンプレート:Fb 監督
脚注
関連項目
テンプレート:FIFA 100 テンプレート:Kリーグ最優秀選手賞 テンプレート:Kリーグベストイレブン (DF) テンプレート:Kリーグベストイレブン (MF) テンプレート:Jリーグベストイレブン (DF) テンプレート:サッカー韓国代表歴代監督 テンプレート:Navboxes テンプレート:2010年アジア競技大会 サッカー韓国代表 テンプレート:ロンドンオリンピック (2012年) サッカー韓国代表
テンプレート:2014 FIFAワールドカップ韓国代表