松本清
テンプレート:政治家 松本 清(まつもと きよし、1909年(明治42年)4月24日 - 1973年(昭和48年)5月21日)は、千葉県東葛飾郡湖北村(現・我孫子市)出身の実業家、地方政治家。ドラッグストアチェーン日本最大手の「マツモトキヨシ」の創業者。東葛飾郡小金町議会議員(当時)、千葉県議会議員、松戸市市長を歴任。
目次
略歴
- 1909年(明治42年)4月24日: 千葉県東葛飾郡湖北村(現・我孫子市湖北)で生まれる
- 1923年(大正12年): 知合いの伝で丁稚奉公(でっちぼうこう)しながら薬の勉強を始める
- 1930年(昭和5年): 「東洋の製薬王」と呼ばれた星一(作家星新一の実父)が設立した星製薬商業学校(現・星薬科大学)を卒業
- 1932年(昭和7年): 薬種商免許取得の後、「松本薬舗」を開業
- 1942年(昭和17年): 千葉県東葛飾郡小金町議会議員(後・昭和の大合併後に東葛市を経て松戸市に編入)
- 1947年(昭和22年): 千葉県会議員、当選(東葛飾郡選挙区)
- 1951年(昭和26年): 千葉県会議員2期目、当選。
- 1954年(昭和29年): 「有限会社マツモトキヨシ薬店」を設立し、商号を変更
- 1956年(昭和31年): 千葉県議会議長。千葉日報社社長に就任(1958年まで)。
- 1969年(昭和44年)1月26日: 千葉県松戸市、第9代市長に当選。任期中、無給勤務で話題になる。
- 同年10月6日: 「すぐやる課」設立
- 1973年(昭和48年)5月21日: 2期目の市長在職中に心不全で逝去。享年64。
エピソード
県議会議員になりたい
貧しい農家の息子であった松本が小学生の頃、視学(現代の教育委員会の指導主事のような職業)が学校を出ようとしたとき偶々、所用で来校した県議会議員と鉢合わせになった際に、逆に視学が慌てて道を譲った。松本は県議会議員がそれほどまでに凄いのかと驚いて家に帰ってから母親に「大きくなったら県議会議員になりたい」と言ったところ、母親から「バカを言っているんじゃない」とこっぴどく説教をされた。それだけに、第二次世界大戦後松本が県議会議員になったと知った母親はただただ驚いたという。
市長選出馬の経緯
松本は元々松戸市に吸収合併された旧東葛飾郡小金町が地元であり、県議会議員の選挙区も初出馬当時に同町が属していた東葛飾郡選挙区から選出していた。従って小金町が松戸市と合併したからと言って松戸市選出議員との関係から選挙区を変えるわけには行かなかった。ところが、当時の市長がスキャンダルで引責辞任すると市政与党の自民党は適切な候補者が見つからなかった。そこで松本に出馬要請をしたものの、当人は松戸で選挙をしたことが無い事、健康面での不安を理由に一旦は固辞した。だが、当時松戸市を含む千葉1区(後に分区して4区)選出の衆議院議員であった当時の自民党副総裁川島正次郎が松戸市の危機であるとして自ら松本を説得して立候補を受諾させた。
すぐやる課
千葉県松戸市長在任中の1969年に「市役所は『市民に役立つ所・市民にとって役に立つ人がいる所』をモットーに、日本初の即応部門「すぐやる課」を市役所に設置。全国的に報道された。課長の臼井銀次郎を含め課員は二名であった。従来の地方行政では、緊急に対応が求められる事態に対しても、何重もの決裁が必要とされてすぐには対応が出来なかった。そこで松本はこの課を市長直属とすることで、機動性を確保しようとしたのである。部署名は“すぐ出来る事はすぐやる”から。この思想は日本各地の市区町村長などに支持され、同名部署や同じ役割の部課が続々とでき、1975年に全国315の自治体で採用された。なお、“すぐやる課”で対応出来ない件は担当部署に回付、“可及的速やかに”処置する事になっている。
- 千葉県松戸市: すぐやる課(市長直属組織)
- 東京都世田谷区: すぐやる課 [1]
- 青森県三沢市: まちづくり対策室
- 沖縄県石垣市: 企画部 すぐやる課 [2]
- デンマーク、グラズサックセ市: StraXen (デンマーク語)
コロムビアからすぐやる課を題材にしたレコード『すぐやる課』(歌:仲清史)も発売された。また1977年には、この課にヒントを得て製作されたテレビドラマ『すぐやる一家青春記』がTBS系列にて放送された[1]。
選挙と景品
市長在職当時、県会議員選挙の投票率が低迷していたため、松本は、投票整理券の整理番号を用いてくじを実施しようと考え、公職選挙法を管轄していた自治省にお伺いを立てたが却下。しかし、くじを実施しても投票の公正性が害されることがないと考えた松本は、その案を実施した(ただし、景品は1等賞が自転車と、それほど高額なものではなかった)。
マツモトキヨシ
現在の「株式会社マツモトキヨシ」は、松本の逝去後、長男の松本和那(後に衆議院議員)により「有限会社マツモトキヨシ薬店」から1975年に改組。孫で元衆議院議員の松本和巳は取締役を務めていた。→マツモトキヨシを参照。現在の「株式会社マツモトキヨシホールディングス」の社長は松本の次男の松本南海雄(日本チェーンドラッグストア協会会長)。現在の「株式会社マツモトキヨシ」の社長は松本の孫の松本清雄。三男松本鉄男も取締役である。
「記念」など
「記念」会館など
- 松戸市小金地区北部には「松本清記念会館」がある。敷地内に松本清の事績を記した石碑が建立されている。簡易食堂を併設。
- 松戸市小金消防署前には松本清の胸像がある。
名前を付けた行政地名
- 松戸市小金地区には「小金きよしケ丘」、「小金清志町」(こがねきよしちょう)と松本清にちなむ住居表示地名や、「清ヶ丘小金公園」なる公園が存在する。少なくとも第二次世界大戦後の日本では、一政治家の名をつける例は稀である。
記念フィルム
- 松本清逝去後、松戸市は本人の功績を称え記念フィルム(ニュース映画)を製作した。自治体がフィルムを作るのは稀である。
関連項目
参考資料
- 松本かづな[2]『私がマツモトキヨシです。』 著ISBN 4763192396
- 樹林ゆう子『マツモトキヨシ伝-すぐやる課を作った男』小学館 ,1996年 ISBN 4093463611
- 鈴木喜代春『アイデアをいかした政治 松戸市役所すぐやる課』小峰書店少年少女ノンフィクション,1977年