杉重矩
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杉 重矩(すぎ しげのり、明応7年(1498年) - 天文21年(1552年)1月)は、戦国時代の武将。周防・長門国を本拠とする戦国大名・大内氏の家臣。豊前守護代・杉重祐の子、または養子。杉重清の子か。子に重輔、正重。
生涯
大内家臣の時代
天文7年(1538年)に朝廷より叙任を受ける。大内義隆に仕え、豊前の守護代として大友氏や少弐氏と戦った。
陶晴賢とは犬猿の仲で、普段から対立していた。
大寧寺の変
しかし、天文20年(1551年)の晴賢の謀反(大寧寺の変)では、晴賢に味方して主君・義隆を討っている。この理由には諸説あるが、義隆が文治派の相良武任を寵愛するのを見て、義隆にも不満を抱いていたためという説が有力である。
最期
義隆への謀反の直後、重矩は再び晴賢と対立した。これは重矩が変後になって主君や公卿らを殺害した自らの軽挙を後悔して周防佐波郡大崎に蟄居していたのだが、変前に晴賢を討つように義隆に進言していた事が相良武任申状を手に入れた晴賢に知られてしまったためである。重矩は晴賢に敗れて長門長興寺に逃亡するも追い詰められて自害した。その首級は義隆の霊に捧げるとして山口で晒し首にされた。この重矩殺害は晴賢が謀反の責任を重矩に転化して自己を合理化して政権を確立するための手段だったとされる[1]。
この遺恨は跡を継いだ息子の重輔に引き継がれた。
重矩は不仲ながら晴賢の謀反に同調して大内義隆を討ったため、義隆に晴賢のことを讒言して、晴賢に寝返った悪人とまで言われている史料もある。
偏諱を与えた人物
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 史料