日間賀島
テンプレート:Infobox 日間賀島(ひまかじま)は、三河湾に浮かぶ離島。行政上は愛知県知多郡南知多町に属し、全域が三河湾国定公園に含まれる[1]。2010年(平成22年)の国勢調査における人口は630世帯2,051人だった。「タコとフグの島」という観光PRを行なっている[2]。篠島や佐久島と合わせて三河湾三島などと呼ばれる。
目次
地理
知多半島・渥美半島まで10km以内と距離的に近く、また本土との生活交流が活発なため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島にあたる[注 1]。日間賀島の周囲には西港の正面にある鼠島や角石(角石島)などの属島があり[3]、下瀬(下瀬島)は干潮時のみ現れる[4]。角石と下瀬は師崎からの航路付近にあるため、島上に灯台が設置されている。日間賀島の北東部にも無数の浅瀬があり、佐久島との中間付近にある大磯にはやはり灯台が設置されている。南岸は150m沖合で水深10m、東岸は350m沖合で水深10mなのに対して北岸は浅く、1,000m沖合で水深20mである[5]。篠島との中間付近には面積0.03km2の築見島があるが、築見島は一般に篠島の属島とされている。
東岸の里中と西岸の西浜のふたつの集落があり[6]、里中は中と小戸地に、西浜は新居と寺下と浪太に分かれている[4]。日間賀島は全体がなだらかな丘陵地を形成しており、島のほぼ中央に30.2mの最高標高地点がある[6][注 2]。面積は0.77km2であり、皇居の約半分である。日間賀島の森林面積は4%に過ぎず、面積の31%が森林の佐久島、面積の24%が森林の篠島と比べて森林に乏しい[2]。篠島とは違って比較的広い耕地があり、昭和40年代後半から昭和50年代にかけてオリーブ、フキ、梅などの栽培がなされたが、これらは定着していない[2]。現在は三河湾三島に農業経営体は存在しない[2]。
気候
三河湾三島地域の気候は温暖であり、年平均気温は16度前後である[6]。結氷や降霜は少なく、降雪はほとんどみられないが、冬季には強い季節風が吹く[2]。1970年代の年平均降水量は1,310mmであり、2005年から2011年の平均が1,469mmだった南知多町の本土や愛知県の平均と比べてやや少ない[6]。
人口
江戸時代に描かれた『日間賀古図』には、西里に120戸余り、東里に150戸余りが描かれた[5]。江戸時代後期にまとめられた尾州徇行記による人口は938人だったが、1891年(明治24年)には1,311人、1930年(昭和5年)には1,951人と、1世紀余りの間に人口が2倍以上に増加した[6]。その後も人口は増え続け、1955年(昭和30年)の国勢調査では過去最高値の2,788人を記録。しかしそこから減少に転じ、1960年(昭和35年)の調査では2,728人、1970年(昭和45年)の調査では2,622人、1980年(昭和55年)の調査では2,576人、1990年(平成2年)の調査では2,397人、2000年(平成12年)の調査では2,221人、2010年(平成22年)の調査では2,051人と、年々減少幅を拡大させている[6]。世帯数は1975年(昭和50年)の調査で初めて600世帯を突破し、1990年調査の658世帯をピークとしながらも、2010年(平成22年)の調査でも630世帯を維持している[6]。2010年調査での高齢者人口比率は29.4%である[6]。
2000年(平成12年)の国勢調査による人口密度は2,882人/km2であり、2位の池島(長崎県、2,641人/km2)、3位の篠島(2,192人/km2)などを上回って日本の離島中最高だった[7][8]。明治・大正・昭和にかけて篠島より人口が少なかったが、戦後には篠島の人口減少が著しく、1990年の国勢調査では日間賀島2,397人、篠島2,352人となり、2世紀以上ぶりに篠島の人口を上回った。
- ファイル:M10.png世帯数 / ファイル:G10.png人口
歴史
古代から近世
東港近くには7世紀から8世紀にかけての古墳が14基あり、宮の鼻古墳集積地と呼ばれている[9]。日間賀島全体では35基の古墳があり、石錘・釣針・直刀・須恵器などが出土している[3]。古くから渥美半島の福江(現田原市)との交流が活発で婚姻などが行なわれ、言語にも三河地方の文化の影響がみられる[3][10]。奈良時代の文献には三河国幡豆郡比莫島という文字がみえ、平城京にサメやクロダイが調進されていた[3]。江戸時代は尾張国知多郡に属する尾張藩領であり、篠島とともに千賀氏が支配した[3][4]。「寛文郷帳」「天保郷帳」における村高は50石であり、「旧高旧領」「寛文覚書」では93石余だった[3]。江戸時代もやはり漁業が中心であり、コノワタを名産とした[3]。元禄4年(1691年)の『知多郡船勢』では日間賀島を121艘(2512石)としており、知多郡内でもっとも船数の多い地域だった[5]。
近代から現代
1876年(明治9年)には本土の師崎村や篠島村と合併して鴻崎村となったが、1881年(明治14年)に再び三村に分離して単独で日間賀島村となった[6][4]。明治中期以後には漁業に加えて養蚕業が盛んとなった。1889年(明治22年)に町村制が施行されると、知多郡日間賀島村として村制を敷いた[3]。江戸時代までの漁業は三河湾内に限られていたが、明治時代以降には外海に飛び出して延縄漁を行なうようになり、大正初期以降には漁船の動力船化が進んだ[5]。1951年(昭和26年)時点でも漁船の1/3は無動力船だったが、1965年(昭和40年)には無動力船の割合は5%程度まで減少した[5]。
1957年(昭和32年)には離島振興法の第7次指定地域となり、篠島・佐久島とともに「愛知三島」という指定地域名が付けられた[6][注 3]。1961年(昭和36年)6月1日、内海町・豊浜町・師崎町・篠島村・日間賀島村の本土3町と離島2村が合併して南知多町となった[6]。1958年4月には三河湾国定公園に指定され、1991年(平成3年)には三河湾地域リゾート整備構想の重点整備地区に指定されている[6]。平成の大合併の際には南知多町・美浜町の任意合併協議会が設置されたが、南セントレア市という新市名候補に両町の住民が拒否反応を示して合併自体が不成立となった[11][12]。2011年(平成23年)9月から12月にかけて、「あいちの離島80日間チャレンジ」[注 4]という離島観光振興キャンペーンが行なわれた。日間賀島には27歳の女性アマチュア歌手が80日間滞在し、日間賀島のテーマソングを制作するなどの活動を行なった[13][14]。2012年(平成24年)10月には佐久島に滞在したイラストレーターによって各島のゆるキャラがデザインされ、特産のタコをモチーフにした「たこみちゃん」がお披露目された[15][注 5]。
寺社
曹洞宗安楽寺は聖観音を本尊とする寺院であり、もともと天台宗の寺院だったが、慶安4年(1651年)に曹洞宗に改められた[4]。別堂には蛸阿弥陀と呼ばれる阿弥陀如来があり、大蛸に抱かれたまま海から引き揚げられたとされる胎内仏が住民に信仰されている[4][注 6]。西里の曹洞宗長心寺は子安観音を本尊とする寺院であり、大永年間(1521年-1528年)に創建された[4]。同じく曹洞宗呑海院は元亀元年(1570年)の開創であり、本尊の弘法大師像は鯖を抱いている。真言宗大光院は天正15年(1587年)の開創であり、知多四国八十八箇所のひとつである[9]。日間賀神社はかつての八王子社であり、応永19年(1412年)に篠島の神明社を勧請した際に八王子神明宮と改称し、1871年(明治4年)に現名称となった[4]。
教育
1873年(明治6年)には大光院に鳴鳳学校が創設され、1877年(明治10年)には日間賀学校と、1887年(明治20年)には簡易小学日間賀学校と、1891年(明治24年)には日間賀尋常小学校と改称された[6]。1911年(明治44年)には現在地に移転し、1925年(大正14年)には日間賀尋常高等小学校と、1941年(昭和16年)には日間賀国民学校と改称された[6]。1947年(昭和22年)には日間賀島村立日間賀中学校が創設され、小学校は日間賀島村立日間賀小学校と改称された[6]。2012年(平成24年)には日間賀小学校に58人、日間賀中学校に67人の児童生徒が通っている[6]。
1980年(昭和55年)には愛知県立内海高校日間賀島分校が開校し、島内の中学生の高校進学率が急上昇した[16]。1987年(昭和62年)には96人もの生徒が在籍していたが、海上交通の整備によって1990年代後半に生徒数が急減し、2001年(平成11年)に閉校となった[16]。21年間で421人の卒業生がおり、最終年度となった2000年(平成10年)には2人の生徒が通っていた[6][17]。篠島にあった内海高校篠島分校も2004年(平成16年)に閉校となり、三河湾三島から高校はなくなった。愛知県は高校の学区制を敷いており、南知多町に属する日間賀島から進学可能な高校は、本来ならば尾張学区の高校に限られるが、愛知県下全域の普通科高校に進学可能な特例が設けられている。
交通
名鉄海上観光船が知多半島や渥美半島と篠島港の間に高速船とカーフェリーを運航している[18]。南知多町の師崎港と日間賀島東港・日間賀島西港・篠島港を結ぶ定期高速船は「師崎-篠島-日間賀島-師崎」の順に巡り、師崎港から日間賀島まで約15分である。同じ三河湾にある佐久島との間には定期航路が存在しないが[2]、海上タクシーなどで行き来することができる。
名鉄が三河湾の離島航路に参入したのは1937年であり、1979年には高速船が就航した[19]。
道路舗装率は85.5%であり、愛知県下の市町村道の舗装率87.1%に遜色ない[2]。2010年(平成22年)の人口2,051人に対して、2011年(平成23年)時点で1,427台の自動車が登録されており、内訳は原動機付自転車が814台、軽自動車が588台などである[6]。東港近くには三河湾三島で初の信号がある[9]。定期バス路線はないが、夏季限定の無料島内巡回バスが運行されている[2]。
経済
水産業と観光業が経済の中心であり、水産業はイカナゴやシラスなどの漁船漁業、海苔などの養殖業、水産加工業などを行なっている[6]。2011年(平成23年)の観光客数は約253,000人であり、内訳は海水浴客が約23,000人、釣り客が約90,000人、その他が約140,000人であるが[6]、1991年(平成3年)の観光客数約430,000人から大きく減少している[2]。
夏場のタコ、冬場のフグ(フク)を観光の目玉にしており、海水浴客や釣り客も多い[6]。安楽寺別堂には蛸阿弥陀如来が鎮座しており、日間賀島は古くからタコとの縁が深かったが、1980年代半ばに「タコの島」というアピールを始めた[20]。東西の港前にはタコのオブジェがあり、タコがデザインされたマンホールのふたなど、島内の至る所にタコをモチーフにした物がある[21]。2012年(平成24年)には新築移転された駐在所の外観がタコに似せられ、赤く塗られた建物が観光スポットのひとつとなっている[22]。
また1989年(平成元年)には、九州近海でフグが不漁となったのを機に「フグの島」としてもアピールし、1996年(平成8年)に名古屋鉄道が「日間賀島ふぐづくしプラン」ツアーを売り出してから「フグの島」というイメージが定着した[23]。2006年(平成18年)には愛知県がトラフグの漁獲量全国1位となり、愛知県は特に12月までの漁獲量が多い。1995年(平成7年)からは本土の南知多ビーチランドからイルカを借り出して日間賀島の海水浴場で泳がせ、「イルカの島」というアピールも行っている[20]。
その他
赤穂浪士四十七士のひとりである大高忠雄(大高源吾)は日間賀島で生まれ育ったとされ、呑海院にはへその緒塚がある。森博嗣の小説『すべてがFになる』(講談社、1996年)の舞台である妃真加島は日間賀島をモデルとしている[9]。川上弘美の芥川賞受賞作品『センセイの鞄』(2001年、平凡社)のモデルは日間賀島ではないかとされている[9]。
ギャラリー
- Meitetu simayuri 01.JPG
カーフェリー「しまゆり」
- Meitetu himakajima 01.JPG
東港にある乗船券売り場
- Meitetu himakajima 02.JPG
西港の乗船場
脚注
注釈
- ↑ 国土交通省が策定した離島振興計画では、離島を本土近接型と隔絶型に分け、さらに本土近接型を内海型と外海型に分けている。本土との距離が近く、航路の安定性が高く、通勤通学が可能な離島が内海本土近接型離島とされる。
- ↑ 国土地理院発行の1:25,000地形図「佐久島」(昭和44年改測・平成17年更新・平成17年発行)には西浜と日間賀小中学校の間に32mの標高点が記載されており、1989年発行の『日本歴史地名大系』でも日間賀島の最高地点は32mとしているが、南知多町が2012年に発行した「篠島・日間賀島の概要」では最高地点は30.2mとなっている。
- ↑ なお、通俗的には「愛知三島」ではなく「三河湾三島」と呼ぶことのほうが多い。
- ↑ 三河湾三島それぞれに失業中の独身女性が80日間滞在し、それぞれの特技を生かして島の魅力を島外に発信するというキャンペーンである。
- ↑ 篠島ではシラスをモチーフにした「しらっぴーな」が、佐久島では大アサリをモチーフにした「あさりん」がお披露目されている。
- ↑ この阿弥陀如来は木造であり、蛸に抱かれたまま海から引き揚げられたというのはあくまでも伝承である。
出典
参考文献
- 『日本地理風俗大系』誠文堂新光社、1959年
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年
- 『日本の島ガイド SHIMADAS』日本離島センター、1998年
- テンプレート:Cite book
- 落合克吉「日間賀島—名物はタコ」『地理』49巻10号、46-47頁、2004年
- 静岡県教育委員会・愛知県教育委員会『日本の漁村・漁撈習俗調査報告書集成 第6巻』東洋書林、2003年
外部リンク
- 日間賀島観光協会 くつろぎの味わいの島
- 南知多町
- あいちの離島振興 - 愛知県地域政策課
- ↑ 『郷土百科事典 23 愛知県』、132頁
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 引用エラー: 無効な
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- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 平凡社 (1988)、518-519頁 引用エラー: 無効な
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 日本離島センター (2004)、857頁「人口密度の高い島BEST20」
- ↑ 『地図帳 日本の島100』山と渓谷社、2006年、34頁
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 日本離島センター (1998)
- ↑ 誠文堂新光社 (1959)、188頁
- ↑ 「『急ぎすぎ』 美浜・南知多住民投票」朝日新聞、2005年2月28日朝刊、愛知1、27頁
- ↑ 「今後の厳しさ強調 美浜町・南知多町合併協解散 2町長会見」朝日新聞、2005年3月4日朝刊、愛知1、27頁
- ↑ 「紡ぐ3島物語 愛知のPR企画、開始1カ月」朝日新聞、2011年10月8日夕刊、1総合、1頁
- ↑ 「『島娘』充実の80日間 愛知の3島PR企画、まもなく終了」朝日新聞、2011年12月24日夕刊、1社会、9頁
- ↑ 「離島のゆるキャラお披露目 あさりん・たこみちゃん・しらっぴーな、3島PR」朝日新聞、2012年10月4日朝刊、名古屋・1地方、25頁
- ↑ 16.0 16.1 「島の分校、さよなら告げる 県立内海高日間賀島校舎」朝日新聞、1999年11月20日朝刊、2社、34頁
- ↑ 「さようなら県立内海高校日間賀島校舎 卒業生2人で最後の式」朝日新聞、2001年3月2日朝刊、愛知1、30頁
- ↑ 航路図・時刻表名鉄海上観光船
- ↑ 「離島航路(パノラマの彼方 明鉄物語第3部:7)」朝日新聞、1998年12月8日朝刊、愛知
- ↑ 20.0 20.1 「愛知県日間賀島 イルカも遊ぶタコの島(ぶらっと日本)」朝日新聞、1996年7月21日朝刊、日曜版、41頁
- ↑ 落合 (2004)、46-47頁
- ↑ 「日間賀島にタコチュー在所 半田署」朝日新聞、2012年4月12日朝刊、名古屋・1地方、23頁
- ↑ 「フグ料理、名物に成長 日間賀島、積み重ねた10年余の努力」朝日新聞、2009年1月11日朝刊、名古屋・1地方、19頁