日刊工業新聞
日刊工業新聞(にっかんこうぎょうしんぶん)は、日本の産業経済紙。発行元は日刊工業新聞社。
概要
創刊90年の歴史を持つ。工業のイメージが強いが、取り上げる業界は流通・サービスや運輸・科学技術・金融・教育・農業・行政・政治など幅広い。中小企業の報道にも熱心で、地方の多くの企業や新しいベンチャービジネスについても取り上げる。企業のコンプライアンス(法令遵守)ほか、毎号ある企業・業界に注目する連載も行う。 発行部数は42万部で、発行は基本的に平日(祝日含む 元日を除き、月曜日が新聞休刊日に当たる場合は土曜日に振り替え発行する)。通常は28~40ページ体制で第2部という形で別刷を発行することもある。1面は重要なトピックスを扱う。最終面は「深層断面」と「企業研究」を掲載する。「自動車」「機械・ロボット・航空機」「電機・電子部品」「情報通信」など産業ごとに分けて、企業と業界のトピックスを扱う。毎日、なんらかの業界・企業・地域の特集ページが存在する。
- 競合紙
- 支社支局
日刊工業新聞社の従業員は500人で、最盛期には2,000人に近い社員がいた。
歴史
1915年(大正4年)創刊。すでに戦前から「大阪古鉄日報」として発行されていた。
第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)、日刊工業新聞社は内閣情報局の指示で日本経済新聞社の前身にあたる中外商業新報社に吸収合併させられる。中外商業新報社は『日本産業経済』(現・日本経済新聞)を核に日刊工業が扱っていた産業分野の専門的な記事を扱う新聞も別に出すことになり、『軍事工業新聞』と題号を変え発行を継続。終戦後の1946年(昭和21年)3月1日、日本産業経済が『日本経済新聞』に題号を変更するのに合わせて旧日刊工業のスタッフが分離独立し元の『日刊工業新聞』として復刊を果たした。テンプレート:Mainテンプレート:See also
高度成長期には工業化の波に乗って部数を伸ばし、日経に迫った。この時期、都道府県庁所在地と工業都市に支社・支局を開設している。専門紙でありながら一般紙並みの支局網を持ち、警察を除く全国の主要記者クラブに日刊工業新聞が加盟しているのも、この頃の名残である。高度成長期には製造業以外の報道でも強みを発揮した。日銀担当(当時)の松本明男記者が「山一危機」をつかみながら、旧大蔵省の圧力を受けた当時の幹部が握りつぶしてしまい、大スクープを逃した話は有名で、「メディアの興亡」や「証券不況」などのドキュメンタリー本で取り上げられている。
1973年の第一次オイルショックで日本の高度成長が幕を下ろすと、日刊工業新聞の部数も低迷する。そのため、エレクトロニクスや情報通信などの新しい製造業にシフトして生き残りを図った。80年代後半から90年代前半のバブル期には低迷していた部数が持ち直し、「流通サービス新聞」を創刊するなど、攻めの経営で業績を伸ばした。経済のグローバル化に対応するため、ニューヨーク・ロサンゼルス・ロンドン・シンガポール・北京に海外支局も開設した。
バブル崩壊を経て90年代後半に入ると、再び部数は下降を始めた。土曜付新聞発行の休止、「流通サービス新聞」の休刊や、人員減、海外支局の全面閉鎖などのリストラを進めたが、業績低迷は続いた。当時、販売で協力関係にある朝日新聞や、東洋経済新報社などとの合併話も流れたが、いずれも実現していない。
2003年9月には経営危機が表面化し、大規模なリストラも断行、九段下にあった本社ビルを売却して借入金を圧縮している。東京・大阪・福岡の新聞印刷工場も閉鎖し、2005年には全面委託印刷に切り替えている。現本社は日本橋小網町の住生小網町ビル。正社員の採用も続けている。土曜日付の新聞発行も月1回のペースで復活した。
著名な記者(出身者を含む)
- 花田清輝 (「軍事工業新聞」時代に記者)
- 本所次郎 (運輸、金融、財界担当記者、作家 1937年 - )
- 1987年から執筆活動に入る。著書に「麒麟 おおとりと遊ぶ」「夢を喰らう 大テーマパーク騒動記」など。フジサンケイグループの権力闘争を描き、ライブドアによる買収劇を予言した「閨閥―マスコミを支配しようとした男」(徳間文庫2004年5月刊)は、中川一徳の記事を一部盗用したことが発覚し、絶版となっている。
- 小林紀晴(写真家)