数の子
概要
語源は「かどの子」の訛りである。近世までニシンを「かど(カドイワシ)」と呼んでいたことの名残である。メスの腹から取り出した卵の塊を天日干し又は塩漬けしたものを食用とする。ニシンの卵一粒一粒は細かいが、無数の卵[1]が相互に結着して全体としては長さ10cm、幅2cm前後の細長い塊となっている。価格が高く、黄金色をしていることから黄色いダイヤの別名がある。
ニシンが昆布に卵を産みつけたものを子持昆布と呼び、珍味としてそのまま食べたり、寿司ダネとして利用される。
食用
日本の市場で流通しているものは、塩蔵数の子と味付け数の子に分類され、一般には前者の方が高級なものとして取扱われている。塩蔵数の子は通常そのままで食べるのではなく、真水につけて塩抜きをしてから食用とする。
食通で知られる北大路魯山人は、「数の子は塩漬けや生よりも一旦干した物を水でもどしたものが美味い、数の子に他の味を染込ませてはならない」と書き記している。また、「数の子は音を食うもの」とも言っている。イクラ、タラコといった他の魚卵の塊と比較すると硬いことから、味のほか歯ごたえや咀嚼時のプチプチという音も楽しめる。
日本以外の地域では近隣のアジア諸国、およびニシンの漁獲量が多い北米、ロシア、欧州などの地域でも、カズノコを食用にする習慣は一般的ではない、それらの地域では日本に輸出を開始する以前はカズノコを廃棄していた。
数の子にはコレステロールが含まれているが、そのコレステロールを消し去るだけのEPA(エイコサペンタエン酸)が含まれている。マウス実験では、コレステロール値が減少する結果も出ている。また通風の原因となるプリン体は、ごくわずかしか含まれていない。
歴史
日本では、室町幕府13代将軍、足利義輝に数の子が献上された記録がある。その後、流通量は増加し、正月のおせち料理や結納において、数の子の粒の多さが子孫繁栄を連想させることから、縁起物として用いられることが増えた。享保の改革によって倹約を進めた江戸幕府8代将軍、徳川吉宗が「正月だけは、富める者も貧しい者も同じものを食べて祝って欲しい。」と願い、数の子をおせち料理に加えることを推奨していることから、当時でも江戸市中では入手が容易(著しく高価ではなく、倹約の対象にならない)であったと考えられている。この頃の数の子は、干し数の子が一般的で、塩数の子が造られるのは1900年代(明治30年代以降)に入ってからという[2]。
漁獲地
日本の明治から大正を経て及び昭和の初期ごろまでは北海道を中心として、ニシン漁が盛んであり、その様子は『ソーラン節』にも謡われ、漁師の中には鰊御殿と呼ばれる大邸宅を持つものもあった。したがって日本産の数の子の入手も比較的容易であった。しかし、乱獲もしくは気候変動による海流の変化により1955年(昭和30年)ごろを境にしてニシンの水揚げが激減し、日本産の数の子は貴重品となり、これに対して輸入品が台頭することとなった。なお、1980年(昭和55年)には、数の子の買占めが原因で倒産した水産会社がでる騒動もあった。1996年(平成8年)以降、日本においてもニシンの水揚げに回復の兆しがみられ、若干量ではあるが国内産の数の子も再び見られるようになっている。なお、国内におけるニシン加工業のほとんどを北海道留萌市で占め、同市の特産品にもなっている。
日本国外では、カナダ、アメリカ合衆国アラスカ州、イギリスのスコットランド、ロシアなどで水揚げされるニシンから数の子が作られ、日本もこれらの地域産のものを輸入している。
これらの地域のうち、アラスカなどの北米大陸西海岸側のものは主に塩数の子として、カナダのニューファンドランド島などの北米大陸東海岸側のものは主に味付け数の子として、またヨーロッパ産のものは塩数の子、味付け数の子双方として、それぞれ加工されることが多いとされる。
脚注
http://www.kazunoko.org/jp/about/about02_01.html
関連項目
- シレチ・ポ・ヤポンスク( śledź po japońsku/日本風ニシン)という、 酢漬けにしたニシンをゆで卵入りのマヨネーズで和えた料理がある。「日本人はニシンの卵(数の子)が好きだ」というのが、「日本人はニシンと卵が好きだ」と誤ってポーランドに伝わったため、ニシンと卵をあわせた料理が「日本風」と呼ばれるようになった。