弁韓
弁韓 (べんかん)は、紀元前2世紀末から4世紀にかけて朝鮮半島南部に存在した三韓の一つ。弁辰とも言う。
目次
領域
馬韓の東、辰韓の南、日本海に接し、後の任那・加羅と重なる場所にあった地域である。その境は、辰韓と接しており、入り組んでいた。
のち、金官国(駕洛国)がこの地域の盟主となり、それぞれの国家の連合をつくった。 テンプレート:Main
社会・風俗
『三国志』魏書弁辰伝によると、辰韓と弁辰(弁韓)は、風俗や言語が似通っていたという。土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適していた[1]。蚕を飼い、縑布を作った[1]。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった[1]。鉄の産地であり、韓、濊、倭などが採掘していた[1]。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった[1]。
また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある[1]。武器は馬韓と同じであった[1]。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った[1]。
史書における記録
- 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝の弁辰伝・辰韓伝[2]
- 『後漢書』弁辰伝[3]
- 『晋書』は648年に唐の太宗の命で編纂開始された。『晋書』辰韓伝は『三国志』辰韓伝の抄録である[4]。
- 『南斉書』列伝第三十九 蛮・東南夷の加羅國伝[5]
弁韓12カ国
弁韓は12国に分かれていた。魏書では弁韓と辰韓はあわせて24国あるとされるが、辰韓馬延国が重複掲載されている[6]。
- 弁辰弥離弥凍国(미리미동국)
- 弁辰接塗国
- 弁辰古資弥凍国(고자미동국)
- 弁辰古淳是国(고순시국)
- 弁辰半路国(반로국)(のちの半跛国)
- 弁 楽奴国(악노국)
- 弁辰弥烏邪馬国(미오야마국)(「弥烏馬邪」の誤写とする説もある)
- 弁辰甘路国(감로국)
- 弁辰狗邪国(구야국)(惱窒靑裔,金首露が金官に建国した駕洛国)
- 弁辰走漕馬国(주조마국)(のちの卒麻国)
- 弁辰安邪国(안야국)(のちの安羅国)
- 弁辰瀆盧国(독로국)(のちの東莱郡。倭に接すという)
歴史
三韓時代
テンプレート:See 朝鮮半島南部の洛東江下流地域には、紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて無紋土器(無文土器)を用いる住民が定着しはじめた。彼らは農耕生活をしながら支石墓を築造し、青銅器を用いた。 紀元前1世紀頃に青銅器と鉄器文化を背景に社会統合が進み、慶尚北道の大邱・慶州地域に辰韓諸国が現われた。
紀元前後にこれらの製鉄技術が慶尚南道海岸地帯に普及したことで、この地域は豊かな鉄産地の保有と海運の良好な条件によって相当な富と技術を蓄積するようになった。それによって社会統合が進み、弁韓諸国が登場してくる。
駕洛国(金官伽耶)
2世紀から3世紀、政治的には辰韓と弁韓に大きく分けられていた。弁韓地域の中で一番優勢な勢力は金海市付近の駕洛国(金官伽耶)であった。金官伽耶は、自身を盟主として前期伽耶連盟[7]を形成し、対外的に周辺地域と交易を行い、斯盧(新羅)を中心とする辰韓と勢力を争った。
4世紀初に至り高句麗は楽浪郡・帯方郡を消滅させて新羅にまで勢力を及ぼすようになった。
倭国と高句麗の戦争
テンプレート:Main 4世紀末から5世紀前半にかけては広開土王碑文によれば、391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする[8]。393年には倭が新羅の王都を包囲する[9]。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ[10]。いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる[8]。400年には倭が新羅の王都を占領していた[8]。高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した[8]。402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる[8]。
日本書紀神功皇后49年3月条に神功皇后が新羅へ親征し服属させた三韓征伐の記事に、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を派遣し、
- 比自ホ(火+保)(ひじほ)
- 南加羅(ありしひのから)
- 喙国(とくのくに)
- 安羅(あら)
- 多羅(たら)
- 卓淳(たくじゅん)
- 加羅(から)
の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、
- 比利(ひり)
- 辟中(へちゅう)
- 布弥支(ほむき)
- 半古(はんこ)
の四つの邑を降伏させた記事がある。
脚注
参考文献
- 『東アジア民族史1 正史東夷伝』東洋文庫264、平凡社,1974年。井上秀雄他訳注。
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関連項目
外部リンク
- 弁韓
- [1]三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝全文。テンプレート:Asbox