廖立

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廖 立(りょう りつ、または、りゅう りつ、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。蜀漢に仕えた。公淵荊州武陵郡臨沅県の人。

荊州を領有しとなった劉備に取り立てられ、従事となった。30歳に満たないうちに、長沙太守に抜擢された。諸葛亮は当時同盟関係にあった孫権からの使者に対して、廖立のことを「龐統と並ぶ楚(荊州)の良才」と高く評価していた。

215年、劉備と孫権が荊州の領有をめぐって衝突したため、長沙を含む三郡は孫権軍の呂蒙の急襲を受けた。このため廖立は益州に逃亡した。劉備は廖立を評価していたため罪を問わず、そのまま巴郡太守に任命した。しかし職務の遂行状況はいいかげんなものであったという(『諸葛亮集』)。

219年、劉備は漢中王になると、廖立を侍中に任命した。劉禅が即位すると、長水校尉に異動となった。

廖立は、自身の才能・名声が丞相である諸葛亮に次ぐと自負していたため、李厳らよりも下の地位に置かれ、閑職にしか就けていないことに不満を抱くようになったという。廖立は諸葛亮に対し卿の地位を与えてほしいと要求した。しかし諸葛亮は、李厳ですらその地位に就けていないことを理由に拒絶したという(『諸葛亮集』)。

あるとき、蒋琬李邵に自分の処遇についての不満を漏らした。さらに、劉備や関羽の軍事的失敗を批判したことを皮切りに、向朗郭攸之や治中の文恭を凡人とこき下ろし、王連についてもただの俗物であると、相次いで非難した。蒋琬と李邵は諸葛亮にこの発言をそのまま伝えた。

諸葛亮は廖立の件を上奏し、誹謗の罪だとして死罪にするよう劉禅に求めた。劉禅は詔勅を下し、死刑にすることは忍びないので流刑とするよう命じた(『諸葛亮集』)。廖立は庶人に落とされた上、汶山郡に流され、妻子と共に農耕で生計を立てることになった。

このような処遇を受けながらも、廖立は諸葛亮ならばいずれ自分を復帰させてくれると信じていたため、234年に諸葛亮が死去したとの知らせを聞くと「私は結局蛮民となってしまうのだ」と言って涙を流し、復帰の望みが絶たれたことを嘆いた。

その後、姜維は軍を率いて汶山郡を通りがかったことがあったため、廖立の元へ挨拶に出向いた。しかし姜維は、彼の以前どおりの意気と落ち着いた話しぶりに感嘆したという逸話がある。結局配所で病没した。妻子は成都に帰ったといわれる。

小説『三国志演義』では、諸葛亮の死を嘆く人物の一人として登場するのみである。