島津貴久

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島津 貴久(しまづ たかひさ)は、戦国時代の武将。薩摩守護大名戦国大名。島津氏の第15代当主。

略歴

戦国大名としての島津氏の中興の祖である伊作忠良(日新斎)の嫡男で、「島津の英主」と称えられる。島津氏9代島津忠国の玄孫にあたり、14代島津勝久の養子に入って島津氏第15代当主となった。薩摩守護職・大隅守護職・日向守護職。官位は従五位下修理大夫、陸奥守。

正室は肝付兼興の娘、彼女の死後後妻として入来院重聡の娘を迎える。他、側室に肱岡氏(島津家久の母)。

生涯

家督相続

永正11年5月5日(1514年5月28日)、薩摩島津氏の分家、伊作家相州家当主の島津忠良の長男として田布施亀ヶ城にて生まれる。この頃、島津氏は一門・分家・国人衆の自立化、さらには第12代当主・島津忠治、第13代当主・島津忠隆が早世し、第14代当主・島津勝久は若年のため、宗家は弱体化していた。

そこで勝久は相州家の忠良を頼り、大永6年(1526年)、貴久は勝久の養子となって島津本宗家の家督を継承した。大永7年(1527年)、勝久は忠良の本領である伊作に隠居し、貴久は清水城に入った。

薩摩統一

加世田出水を治める薩州家当主・島津実久はこれに不満を持ち、実久方で加治木伊集院重貞・帖佐の島津昌久が叛旗を翻した。実父の伊作忠良がこれらを討っている間に、島津実久方は北薩の兵が伊集院城を、加世田・川辺など南薩の兵が谷山城を攻略し、攻め落とした。さらに川上忠克を勝久のもとに送り、島津勝久の守護職復帰を説いた。貴久は鹿児島で攻撃され、夜に乗じて城を出て園田実明らと共に亀ヶ城に退いた。貴久は島津勝久との養子縁組を解消される。

天文2年(1533年)、日置郡南郷城の島津実久軍を破って初陣を上げ、島津実久への反攻を開始した。天文5年(1536年)、忠良・貴久父子は伊集院城を奪還し、天文6年(1536年)に鹿児島に進撃して、入城した。

天文7年(1538年)から翌年にかけて、南薩における実久方の最大拠点・加世田城を攻略し、攻め落とした。その後、紫原において最終決戦が行われ、勝利した。守護の島津勝久も伊作貴久・伊作忠良親子に薩摩を追われ、母方の大友氏を頼り豊後へ亡命した。ここに伊作家出身の貴久は薩摩半島を平定し、戦国大名として国主の座についた。天文19年(1550年)、貴久は伊集院城から鹿児島へと移るが、薩摩守護の島津氏の守護所であった清水城を避け新たに内城を築いて戦国大名島津氏の本城とした。

大隅合戦

大隅は古くからの国人衆が多く、守護の支配権が長い間及ばない地域であった。これらは島津氏の領土拡大において多大な障害となっていた。天文23年(1554年)、島津氏の軍門に降った加治木城主の肝付兼盛蒲生範清祁答院良重入来院重期菱刈重豊らが攻めた。加治木を救援するために島津氏は貴久はじめ一族の多くが従軍した。貴久は祁答院氏のいる岩剣城を攻めることで、加治木城の包囲を解こうと考えた。島津軍は岩剣城を孤立化させた結果、蒲生範清・祁答院一族ら2000余人が押し寄せた。島津軍は蒲生軍を撃破し、祁答院重経・西俣盛家など50余人の首級を挙げた。

貴久は続いて、弘治元年(1555年)、帖佐平佐城を攻略し、弘治2年(1556年)、松坂城を攻略した。支城を3つ失った蒲生氏は本拠の蒲生龍ヶ城を火にかけて祁答院へと逃げ帰った。これにより貴久は西大隅を手中に治め、領土拡大の足掛かりにすることができた。

晩年

永禄9年(1566年)、剃髪して長子の義久に家督を譲り、自らは伯囿と号して隠居した。

元亀2年(1571年)、大隅の豪族である肝付氏との抗争の最中に加世田にて死去。享年57。

人物・逸話

  • 貴久は悲願の旧領三州(薩摩、大隅、日向)の回復こそ果たせなかったが、彼の遺志は息子達に受け継がれていた。義久は翌年には日向の伊東氏を木崎原で撃破。さらに次の年には肝付氏を服属させ、島津家は薩・隅・日三州の太守としての地位を確立させている。後に九州制覇を成し遂げた戦国大名島津家の基礎を形成したという意味で、父の忠良とともに「中興の祖」と並び称されている。
  • 島津家は室町時代からや琉球と交易をしており、貴久も琉球尚元王と修好を結び、ポルトガル船などから銃や洋馬を輸入し、産業事業を興した。また、貴久は永禄中インド総督に親書を送るなど外交政策にも積極的に取り組んだ。鉄炮種子島氏より献上されると数年後には実戦で利用している。天文18年(1549年)に来日したフランシスコ・ザビエルキリスト教の布教許可を出している。しかし寺社や国人衆の反対が激しかったことや、期待したほどに南蛮船も訪れなかったことから、後に布教を禁止している。
  • 史料上、鉄砲を実戦に初めて使用した戦国大名は貴久であるとされており、入来院氏との戦いが初見とされている。

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