山下りん

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山下りん(やました りん、安政4年5月25日1857年6月16日) - 1939年昭和14年)1月26日)は日本の画家である。日本人最初のイコン画家として知られる。正教徒で聖名はイリナ。そのためしばしばイリナ山下りんとも言及される。

略歴

常陸国笠間藩茨城県笠間市)の出身。江戸に出て浮世絵師に学び、川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。

同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都・ペテルブルク留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエルが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院イコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した。

帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン製作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北北海道を中心に多数の聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア・イコンを通じて山下りんがギュスターヴ・ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。

イリナ山下のイコンは全て模写であり無署名である。この点において、正教のイコンの原則を忠実に守っている。ロシア留学からの帰国後、肖像写真にも土産としてもらったワンピースを着て写ることもなく粗末な木綿の着物で写り留学経験を誇る風もなく、機関紙である正教時報にも留学体験を書く事もなく、教会内で目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに勤めた。当時の女子神学生の証言として、周囲とは全く没交渉で浴室で稀に会った程度であり、アトリエすらも見た者は居なかったというものがある[1]

ロシア革命後は正教も衰えたため1918年大正7年)61歳で郷里の笠間に戻り、晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。81歳で没。墓所は笠間市の光照寺。1901年(明治34年)44歳で制作のイコン、ウラジーミルの聖母は2005年に美の巨人たちでとりあげられた。

脚注

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関連文献

関連項目

外部リンク

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  1. 『山下りんとその時代展』より一部抜粋鐸木道剛岡山大学准教授)