小金城

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テンプレート:Infobox 小金城(こがねじょう)は下総国葛飾郡(現在の千葉県松戸市大谷口付近)にあったである。

概要

標高20mほどの丘陵地帯にあり、古利根川中川荒川流域の低地帯を一望できる場所である。城域は東西800m、南北700mにおよび、12もの郭を備えて、当時の下総国北西部においては最大規模を誇った平山城である。大谷口城開花城、とも呼ばれる。

要害の城であったが、太日川(現在の江戸川)の要でもあったため、水運により城下は市が立ち並んで金宿(後の小金宿)が形成され、周辺の本土寺東漸寺が領主高城氏の保護を受けて栄えるなど、軍事的にも経済的にも栄えた場所であった[1]

城の歴史

千葉氏の家老原氏の重臣であった高城氏の居城である。原氏が室町時代享徳の乱上杉氏と対立関係に入った時期に、上杉勢力の下総侵攻を防ぐ拠点とするために重臣の高城氏を小金に配置したものと考えられている[2](金領(こがねりょう))。

小金城(大谷口城)は、天文6年(1537年)9月に高城胤吉によって築かれ、胤吉、胤辰胤則と3代53年の居城となった。胤吉は城建設以前には近郊の栗ケ沢城根木内城を根拠地として構えていたが、小弓公方足利義明の進出に対抗するために大谷口に新城を築城して移った。

永禄年間(1560年代)、古河御所を追われた古河公方足利義氏の仮御所[3]の役目と、義氏に敵対する関東管領上杉憲政を擁立して関東へ侵攻した上杉謙信に備えて拡張が行われたものと考えられている。実際、永禄9年(1566年)2月には上杉方に小金城を包囲されたが、籠城して乗り切ることに成功している。

天正18年(1590年)の小田原征伐の際、後北条氏方の高城氏は後北条氏に従い小田原城に篭城し、豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城した。その後、徳川家康の五男、武田信吉が居城としたが、文禄2年(1593年)に廃城となった[4]

現在の城

現在ほぼ全域が住宅街となっているが、下総台地西端の自然地形を利用した縄張りとなっているため、当時の城域は現状でもある程度確認できる。また、城跡の一部が大谷口歴史公園として整備されており、後北条氏関連の城跡で多く見られる畝堀障子堀、土塁などの遺構が残る。なお、昭和37年(1962年)および平成3年(1991年)に宅地造成に際して松戸市によって発掘調査が行われており、多くの建物跡、櫓跡、また鉄砲の弾や陶磁器などが発見されている。

脚注

  1. なお、小金城の発掘では瀬戸常滑焼中国産と見られる陶磁器も出土しており、こうした出土品からも小金が幅広い地域と水運を通じて結びついていた事実を示している。
  2. 原氏の小金支配を巡っては、小金城の築城者を高城胤吉以前の原氏に求める意見もある。これは小金城や根木内城の遺構から室町時代の陶磁器が出土していることによる。原氏が戦国時代初期に小弓公方に追われて一時小金に拠点を置いていた事が知られており、高城氏以前の小金城(「前期小金城」)や根木内城などの小金付近のいずれかの城に原氏の拠点としての「小金城」があったと見られている。
  3. ただし、北条氏康野田政保(古河公方家臣)に充てた書状では、「(義氏は)当初は江戸城に移る予定であったものが、芳春院(義氏生母・氏康の姉妹)逝去などで準備が遅れたためにその代替で小金城に移られた。」と書かれており、小金城の改築中に偶々公方移座が重なっただけであるとする見方もある。
  4. ただし、慶長5年7月23日徳川家康に従って東軍(関ヶ原の戦い)に参加していた里見義康が小金に陣を設置しており、この陣が小金城と関連性があるともされるが不詳である。

参考文献

  • 千葉城郭研究会 編「図説房総の城郭」(国書刊行会、2002年)ISBN 4-336-04433-3
  • 千野原靖方「東葛の中世城郭 千葉県北西部の城・館・城跡」(崙書房出版、2004年)ISBN 4-8455-1101-0

関連項目