小野剛 (サッカー指導者)
テンプレート:サッカー選手 小野 剛(おの たけし、1962年8月17日 - )は、千葉県出身のサッカー指導者。
来歴
初期
千葉県立船橋高等学校、筑波大学体育専門学群卒業。大学の2年先輩に松田浩、1年先輩に風間八宏・鈴木淳・望月一頼がいる[1]。大学サッカー部4年間をCかDチーム(3ないし4軍)で過ごし[1]、大学4年時にはサッカー部副キャプテンを務めた[2]。
1988年、筑波大大学院体育研究科修士課程卒業、1990年まで筑波大助手兼サッカー部コーチを務めた[2]。1990年から1996年まで成城大学法学部専任講師を務め、その間成城大サッカー部コーチや東京都学生選抜および関東大学選抜コーチなどを経験した[2]。1994年から1年間、テンプレート:仮リンク客員研究員を経験している[2]。
よって小野には、プロのサッカー選手どころか実業団サッカーの経験もない。1994年テンプレート:仮リンク(NSCAA)公認上級コーチライセンス、同年イングランドサッカー協会(FA)公認上級コーチライセンスを取得する[2]。
JFAスタッフ
小野が初めて日本サッカー協会(JFA)スタッフとなったのは筑波大助手時代の1988年「カリキュラム委員会」委員となってからである[2]。以降、加藤久や田嶋幸三らと共に若年層強化を図る[2]。
1996年、JFA技術委員を務めていた今西和男にスカウトされ、Jリーグのサンフレッチェ広島強化部コーチとして若年層指導者育成に尽力する。1997年、JFA 公認S級コーチライセンスを取得する[2]。
1997年、加茂周日本代表監督更迭により急遽代表監督に就任した岡田武史よりアシスタントコーチに指名される[2]。フランスW杯にもコーチとして参加する[2]。
その後はJFAおよび日本オリンピック委員会の若年層強化スタッフとして活躍する[2]。1999年、西村昭宏率いるU-20日本代表のコーチに就任し、2002年のトゥーロン国際大会ではU-21日本代表ヘッドコーチ(U-23日本代表の暫定監督)として松井大輔・山瀬功治や阿部勇樹らを擁し3位入賞を果たす[2]。
広島
2002年9月、サンフレッチェ広島ヘッドコーチに就任[2]。チームはJ1残留争いをしていたが戦術が定まらず混迷していたため、同年10月監督の木村孝洋からヘッドコーチ職の小野に実質的な監督職として全権限が委任された[3]。チームは立て直った[3] がそれまでの失った勝ち点が響き同年末にJ2に降格した。降格を受け木村は辞任、小野が正式に監督に昇格した[4]。
J2落ちしたチームを3年後にはJ1で優勝争いする目標を立て、森崎和幸や森崎浩司、駒野友一ら若手をチームの中心に据え、その後佐藤寿人を補強するなど若返りに努めた[5]。
2002年天皇杯ではベスト4入り。2003年末にはJ1復帰を果たす[4]。2005年シーズン前半は一時期2位まで順位をあげるも、後半は息切れし最終的には7位で終了する[6]。 2006年、ウェズレイや戸田和幸らJリーグでの実績を持つ選手を補強、若手の多いチームに経験を注入させ更なる上位を目指すものの、チーム作りに失敗し、リーグ戦8試合を終了した時点で5敗3分の成績不振の引責をとり退団した[7]。
その後
2006年8月田嶋幸三の後を受け、JFA技術委員長に就任する[4]。
2007年11月16日に脳梗塞で倒れたイビチャ・オシム日本代表監督の後任としてホルガー・オジェックらが候補に上がる中、旧知の仲である岡田武史に就任を打診し同年12月に正式契約を結んだ[8][9]。
2009年2月、技術委員会の組織変更に伴い強化担当には原博実が就任し、小野は育成担当となった。小野が技術委員長時代の年代別日本代表は、U-17男・女、U-20女子、U-23(五輪代表)といずれも世界大会に出場するも、U-20男子だけは8大会ぶりに世界大会出場を逃している。2010年1月14日付けで、育成担当技術委員長及びJFA理事を退任した[10]。
退任後は、2009年から就任しているFIFAインストラクター[4] をこなしながら、テレビ解説の仕事をしていた。2010年12月にはベガルタ仙台フロントの内紛騒動の中で次期監督候補となっていた[11][12]。
2011年末、岡田武史の指導者活動再開に際し杭州緑城を奨めた[13] ことにより岡田は杭州監督に就任、その際岡田から副官として指名され2012年から杭州コーチとして支えることになった[14]。この時の杭州は日本人スタッフを大量に登用しており、甲組(U-20)を小野・乙組(U-18)を石崎信弘が監督を務め、岡田・小野・石崎の尽力により、陳中流や石柯・テンプレート:仮リンクを含めた若い中国人選手を育てあげている。2013年末、小野を含めた杭州の日本人スタッフは全員退任した[15]。
熊本
監督成績
年度 | チーム | 所属 | 大会名 | 試合数 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | 勝点 | 順位 | ナビスコ杯 | 天皇杯 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2002 | 広島 | J1 | - | - | - | - | - | - | - | - | ベスト4 |
2003 | J2 | - | 44 | 25 | 11 | 8 | 86 | 2位 | - | 4回戦敗退 | |
2004 | J1 | 1st | 15 | 3 | 6 | 6 | 15 | 13位 | 予選リーグ敗退 | 4回戦敗退 | |
2nd | 15 | 3 | 7 | 5 | 16 | 11位 | |||||
年間 | 30 | 6 | 13 | 11 | 31 | 12位 | |||||
2005 | J1 | - | 34 | 13 | 11 | 10 | 50 | 7位 | 予選リーグ敗退 | 5回戦敗退 | |
2006 | J1 | - | 8 | 0 | 3 | 5 | 3 | 18位 | 予選リーグ敗退 | - | |
2014 | 熊本 | J2 | - |
- 2002年は天皇杯から指揮。
- 2005年シーズンより、1st,2ndステージ制を廃止し、1シーズン制を採用している。
- 2005年シーズンより、J1チームは16チームから18チームに拡大された。
- 2006年は途中解任(数値は解任時の数値)。
脚注
参考資料
関連情報
- 著書
- 『世界に通用するプレーヤー育成のためのクリエイティブサッカー・コーチング』、1998年12月、大修館書店、ISBN 4469264016
- 『フランスサッカーのプロフェッショナルコーチング』(今井純子との共同翻訳、ジェラール・ウリエ/テンプレート:仮リンク著)、2000年11月、大修館書店、ISBN 4862550371
- 『サッカースカウティングレポート 超一流のゲーム分析』、2010年2月、カンゼン、ISBN 4469264016
- 『サッカープレーヤーズレポート 超一流の選手分析術 』、2010年12月、カンゼン、ISBN 4862550851
- 『8人制ジュニアサッカーバイブル―ルール・練習法・ゲーム…etc.すべてがわかる!』、2011年3月、学研パブリッシング、ISBN 4054048994
- 映像
- 『Soccer Coaching Bible』全10巻
- 『The Soccer Star Part II』全3巻
関連項目
外部リンク
- 選手・スタッフ - ロアッソ熊本公式
テンプレート:ロアッソ熊本のメンバー テンプレート:Jリーグ監督
テンプレート:Navboxes- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 サンフレッチェ広島2002年9月4日付
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 (株)ボランチ
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