小泉龍司
テンプレート:日本の国会議員 小泉 龍司(こいずみ りゅうじ、1952年9月17日 - )は、日本の政治家、大蔵官僚。衆議院議員(4期)。
来歴
埼玉県秩父市出身。1975年東京大学法学部卒業。大蔵省に入省する。1989年大阪税関総務部長、1991年銀行局金融市場室長、1993年米国コロンビア大学大学院客員研究員、1995年証券局調査室長を歴任。
1996年4月、大蔵省を退官。同年10月の第41回衆議院議員総選挙に埼玉11区から無所属で出馬するが落選。2000年6月、第42回衆議院議員総選挙に、再度埼玉11区から無所属で出馬し、初当選する。同年11月、自由民主党に入党。2003年11月、第43回衆議院議員総選挙で再選。
2005年7月5日の郵政民営化法案の衆議院本会議における採決では、直前に自民党副幹事長の職を辞任した上で、反対票を投じた。このため、同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず無所属で出馬するが、自民党の公認を得た新井悦二に敗れ、落選。選挙後、自民党党紀委員会から離党勧告を受け、自民党を離党。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、同じく郵政造反組で元経済産業大臣の平沼赳夫が率いる平沼グループや連合埼玉支部の支援を受け、埼玉11区で当選し、国政に復帰。連合埼玉支部の支援があるため民主党は公認候補を擁立しなかった。選挙後、平沼、城内実と院内会派「国益と国民の生活を守る会」を結成した。
2010年4月10日、平沼を中心に結党したたちあがれ日本には、地元後援会との調整などを理由に、城内実と共に参加を見送った。たちあがれ日本の結党後、国益と国民の生活を守る会の会長に就任した。
2011年6月2日に採決された菅内閣不信任決議(菅おろし)では「被災者を置き去りにする政治空白は許されず、不信任案には反対だったが、菅首相の政治手法には疑問」として投票を棄権した[1]。
2011年7月、城内実が自民党に復党する意向を示し、城内と自民党の間で、復党の時期や手順を党側に一任する合意がなされた。このため「国益と国民の生活を守る会」は同年12月、「民主党政権への危機感と早期に解散総選挙に追い込むため自民党と共闘する必要がある」という理由で、衆議院の院内会派「自由民主党・無所属の会」への合流を決定。ただし、小泉自身の自民党への復党は認められず、2012年12月の第46回衆議院議員総選挙には無所属で出馬。埼玉11区で自民党新人の今野智博を破り、4選(今野も比例復活。民主党は今回も公認候補を擁立しなかった)。
政策・主張
- 憲法改正に賛成[2]。
- 集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すことに賛成[2]。
- 日本の核武装について検討すべきでないとしている[2]。
- 女性宮家の創設に反対[2]。
- 日本のTPP参加に反対[2]。
- 第46回衆議院議員総選挙後の政権は、民主党と自由民主党の大連立が望ましいとしていた[2]。
- 表現規制を推進する立場を取っており、マンガ・アニメ・ゲーム・映画の表現を規制する青少年健全育成基本法案の請願を国会に提出した[3]。
不祥事
- 日本共産党の機関紙しんぶん赤旗に、2009年の第45回衆議院議員総選挙において、30人に弁当とお茶を提供するなどの公職選挙法違反があったと報じられた[4]。
著書
- 「日本の進路を拓く」(ライフリサーチ・プレス、1998年)
脚注
- ↑ 「政争してる場合か」内閣不信任案朝日新聞 2011年6月3日
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 テンプレート:Cite news
- ↑ 請願名「青少年健全育成基本法の制定に関する請願」の情報
- ↑ しんぶん赤旗 2009年9月16日