孝昭帝

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テンプレート:基礎情報 中国君主 テンプレート:Wikisourcelang テンプレート:Wikisourcelang 孝昭帝(こうしょうてい)は、北朝北斉の第3代皇帝。高歓の六男。

生涯

元象元年(538年)、常山郡公に封ぜられた。中書侍郎の李同軌を師として学んだ。天保元年(550年)に兄の文宣帝が北斉が建てると常山王に封ぜられた。天保5年(554年)、并省尚書令に任じられた。天保8年(557年)、司空録尚書事となった。天保9年(558年)、大司馬となった。文宣帝が遊宴に溺れるのを諌めた。天保10年(559年)10月に文宣帝が崩御すると高殷が即位し、楊愔・燕子献・宋欽道らが補佐した。11月に太傅となり、乾明元年(560年)2月には太師に転じた。詔と偽って楊愔や燕子献らを斬り、大丞相となって権力を握った。8月、太皇太后婁氏の令を借りて高殷を廃位し、自ら晋陽の宣徳殿で皇帝に即位した。

孝昭帝の治世は人材を広く求め、前代までの弛緩した朝政の建て直しに尽力した。民衆に対しては税賦の軽減を図り、軍事面では庫莫奚への親征を行なうなどの功績を残した。

皇建2年(561年)11月、落馬の怪我が原因で晋陽宮に崩御した。

孝昭帝が落馬した時、母親の婁氏が彼を見舞った。だが、そこで孫の廃帝高殷が孝昭帝によって殺害されたことを知ると、息子が孫を殺害したことを非難して立ち去り、二度と見舞いに来ることがなかった。また、皇太子の高百年が高殷のように殺害されることを恐れて、死の間際に帝位を九弟の高湛(武成帝)に譲り、太子を殺さないよう遺言した。しかし、その死後に武成帝は高百年を殺している。文宣帝が崩御する間際、のちの孝昭帝を呼んで「自分の跡を継ぐ太子(高殷)はまだ子供だ。お前が廃立を行うのなら仕方がないが、決して殺してくれるな」と遺言されていたにもかかわらず、高殷を廃した上で自らが即位し、のちに殺している。これを宮崎市定は「自分は人の子を殺しておいて、自分の子だけ人に殺すなと頼んでも、それは無理な注文というものだ」と評している[1]

宗室

后妃

伝記史料

  • 北斉書』巻六 補帝紀第六
  • 北史』巻七 斉本紀中第七

脚注

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先代:
廃帝
北斉の第3代皇帝
560年 - 561年
次代:
武成帝
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  1. 『大唐帝国 中国の中世中公文庫 ISBN 4122015464、314-315p