廃帝 (北斉)

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テンプレート:基礎情報 中国君主 テンプレート:Wikisourcelang テンプレート:Wikisourcelang 廃帝(はいてい)は、北朝北斉の第2代皇帝。姓名は高殷(こう いん)。文宣帝高洋の長男。

生涯

天保元年(550年)に北斉が建国されると、皇太子に立てられた。聡明で漢家の学問に通じたが、父の文宣帝には自分に似ていないとして疎まれた。天保9年(558年)、諸儒を集めて『孝経』を講義した。文宣帝が金鳳台に登ったとき、高殷に手ずから囚人を斬らせようとしたが、高殷は難色を示して斬らなかった。このことに激怒した文宣帝が高殷を鞭打つと、高殷は吃音となり、精神にも障害を負った。

天保10年(559年)10月に文宣帝が崩御すると、晋陽の宣徳殿で皇帝に即位した。楊愔燕子献宋欽道らの輔弼を受けた。11月、斛律金を左丞相、常山王高演太傅、長広王高湛太尉段韶司徒にそれぞれ任じた。乾明元年(560年)2月、高演を太師とし、高湛を大司馬に任じた。高演はと偽って楊愔や燕子献らを斬り、大丞相となって権力を握った。8月、太皇太后の令により高殷は廃位されて、済南王に降封された。

皇建2年(561年)9月、晋陽で扼殺された。

宗室

后妃

伝記史料

先代:
文宣帝
北斉の第2代皇帝
559年 - 560年
次代:
孝昭帝