天誅組の変

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天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)は、幕末文久3年(1863年8月17日吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である。大和義挙大和の乱などとも呼ばれる。

概要

文久3年前半期は尊皇攘夷運動が最高潮に達した時期であり、長州藩や各地から集結した浪士などから成る尊攘派は、朝廷にも強い影響力を持つに至っていた。この頃の尊攘派の主張には、朝廷が直接各藩に攘夷を命じることのほか、畿内を朝廷の直轄領とするなどの意見がみられたが、天誅組の蜂起は、幕府に対する尊攘派の初めての武力蜂起という点で画期的なものであった。

天誅組の挙兵自体は短期間で失敗に終わったものの、幕府領支配の拠点である陣屋や、小大名とはいえその居城が公然と襲撃されたことは、幕府や幕藩領主らに大きな衝撃を与え、幕府の威光の失墜を更に進行させる結果となった[1]

経過

大和行幸

文久2年(1862年)12月、孝明天皇攘夷勅書将軍徳川家茂に授けた。これに対して家茂は、攘夷の策略については、明年3月に上洛の上回答する旨を奉答する。文久3年3月に家茂は上洛し、幕府は尊攘派の圧力に屈する形で、5月10日をもって攘夷を決行すると約束させられる。

幕府は右の期限をもって、通商条約の破棄について諸外国との交渉を開始することとし、諸藩には海防の強化を命じたが、尊攘派が主導する長州藩はこれを拡大解釈し、5月10日、下関海峡を通過するアメリカ船を砲撃して「攘夷」を決行した(下関戦争)。この武力行使には、急進的な攘夷派公卿侍従中山忠光が長州藩に招かれて参加しており、忠光のからの出奔には土佐脱藩浪士吉村虎太郎が加担していた。

長州藩は続いてフランス船、オランダ船を砲撃し、朝廷からも攘夷決行を称賛する沙汰が下される。しかし、6月に入って米仏艦隊による報復攻撃に長州藩は敗北、7月、中山忠光は京へ戻るものの謹慎を命じられ、侍従の職も剥奪されてしまう。

8月13日、天皇の神武天皇参拝、攘夷親征の詔勅が発せられる(大和行幸)。大和行幸を推進したのが、長州藩に気脈を通じる三条実美ら攘夷派公卿であった。吉村虎太郎は松本奎堂藤本鉄石池内蔵太ら攘夷派浪士と共に、大和行幸の先鋒となるべく大和国へ赴くことを決議。14日、吉村らは中山邸を訪ねて忠光を方広寺へ誘い出した。忠光を大将とする同志38人(内、土佐脱藩18人、久留米脱藩8人)は方広寺を出発して大和国へ向かった。一行は長州下関へ下る勅使と偽って大坂から海路でへ向かう。船中で忠光ら同志一行は断髪して決意を示した。彼らの挙兵に際して淡路の大地主で勤皇家であった古東領左衛門は財産を全て処分し、軍資金として供出した。

挙兵

8月15日、堺(現在の堺市堺区栄橋町1丁の土居川沿い、当地に堺事件の碑とならんで「天誅組上陸地」の碑が建てられている)に到着した同志一行(以降、天誅組と記す)は翌16日払暁に高野街道を通って河内をめざし、狭山に入った。天誅組は吉村らを軍使として狭山藩陣屋へ送り、先代藩主で隠居の身であった北条氏燕との面会を申し出た。氏燕は急病と偽って面会を断り、家老朝比奈縫殿が代って対応する。忠光は朝比奈に狭山藩も出陣して義挙に加わるよう命じた。対応に苦慮した狭山藩はとりあえず天誅組にゲベール銃など銃器武具を贈り、天皇親征の節には加わる旨を回答する。天誅組は下館藩の飛び地である白木陣屋にも使者を送り、銃器武具を差し出させている。天誅組は菊の御紋の入った旌一流、「七生賊滅天後照覧」と大書された幟一本をつくり、士気を高めた。

17日、天誅組は河内檜尾山観心寺に入る。軍資金を調達に出ていた藤本鉄石が合流して出発、国境の千早峠を越えて大和国へ入った。幕府天領五条に到着した天誅組は、代官所を襲撃することを決める。代官所を包囲した天誅組は代官鈴木源内に降伏を要求。ゲーベル銃隊を率いる池内蔵太が空砲で威嚇し、吉村が率いる隊が裏門から突入した。代官所の人数は30人程で、意気軒昂な天誅組に抗することができず代官所方は敗北し、鈴木は殺害される。天誅組は代官所を焼き払い、桜井寺を本陣に定めた。

18日、天誅組は鈴木源内を梟首し、五条を「天朝直轄地」と称して、この年の年貢を半減することを宣言する。天誅組は忠光を主将、吉村、松本奎堂、藤本鉄石を総裁とする職制を整え、自らを「御政府」または「総裁所」と称した。近隣の高取藩那須信吾らを恭順勧告に送り、高取藩もこれに服する旨を伝えてきた。一方、天誅組の挙兵を知った京の三条実美は自重をうながすべく平野国臣を使者に送った。

高取城攻撃

大和で天誅組が挙兵した直後、京では政局が一変していた。会津藩薩摩藩と気脈を通じた中川宮が尊攘派の排除を図り、孝明天皇を動かして政変を起こした(八月十八日の政変)。これにより、大和行幸の延期と三条実美ら攘夷派公卿の参朝禁止、長州藩の御門警護解任が決定された。これらの決定は会津藩ら諸藩兵により御所を封鎖した上で行われ、宮門に駆けつけた長州藩兵との間で一触即発の事態になる。結局、長州藩は武力衝突を避けて撤退、攘夷派公卿は官位を剥奪されて失脚した。朝廷の実権は公武合体派が握ることになった。

19日、平野国臣が天誅組の本陣がある桜井寺に入ったが、平野は当初の目的に反して天誅組に同調してしまう。しかし、直後に京での政変が伝えられ、天誅組が暴徒として追討の命が下されたことが明らかとなる。忠光らは協議の末、本陣を要害堅固な天の辻へ移すことを決め、20日、天誅組は当地に入り、本陣を定めた。吉村が元来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけ、960人を集めた。天誅組は「御政府」の名で近隣から武器兵糧を集め、松の木で大砲十数門をつくったが、その装備は貧弱なものだった。十津川郷士も半ば脅迫でかき集められたこともあり、天誅組の強引な指示には疑問を持つ者が少なくなかった。玉堀為之進ら数名は天誅組の作戦に抗議し、天の辻で斬首されている。

先に天誅組に恭順を約した高取藩は態度を翻し、兵糧の差し出しを拒否したため、天誅組は高取城攻撃を決定する。25日、忠光率いる本隊が高取に向かい、吉村は別働隊を率いて御所方面に進出して郡山藩に備えた。天誅組の進発を察知した高取藩は防備を固める。千人余の天誅組に対して、二万五千石の小藩である高取藩の兵力は200人程だったが、地理を熟知していた。26日払暁、狭い小道を進軍してきた天誅組に対して、高取藩兵は大砲鉄砲で攻撃、烏合の衆である天誅組はたちまち大混乱に陥ったが、忠光にこれをまとめる能力はなかった。天誅組は潰走して五条へ退却する。吉村は決死隊を編成して夜襲を試みることとし、26日夜、決死隊は高取藩の斥候に遭遇し交戦するが、味方の誤射により吉村が重傷を負ってしまう。決死隊はなすところなく退却し、天の辻の本陣へ戻った。

忠光は、紀州新宮より海路で移動し、四国九州で募兵することを提案するが、吉村らはこれに従わず、忠光は吉村らと別れて別行動をとった。また、この時点で三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥のように脱走するものもあった[2]。伊藤の脱走は天誅組の脆弱さを示す一例としてしばしば引用される。

壊滅

幕府は紀州藩津藩彦根藩郡山藩などに天誅組討伐を命じた。9月1日、朝廷からも天誅組追討を督励する触書が下される。9月5日、忠光が吉村らに再度合流して天の辻の本陣へ帰った。諸藩の藩兵が動き出し、6日、紀州藩兵が富貴村に到着、天誅組は民家に火を放って撹乱した。7日、天誅組先鋒が大日川で津藩兵と交戦して、これを五条へ退ける。天誅組は軍議を開き大坂方面へ脱出することを策す。

8日、幕府軍は総攻撃を10日と定めて攻囲軍諸藩に命じた。総兵力14000人に及ぶ諸藩兵は各方面から進軍、天誅組は善戦するものの、主将である忠光の命令が混乱して一貫せず、兵達は右往左往を余儀なくされた。統率力を失った忠光の元から去る者も出始め、天誅組の士気は低下する。14日、紀州・津の藩兵が吉村らの守る天の辻を攻撃、吉村は天の辻を放棄した。忠光は天険を頼りに決戦しようとするが、朝廷は十津川郷に忠光を逆賊とする令旨を下し、十津川郷士は変心して忠光らに退去を要求する。19日、進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。

天誅組の残党は山中の難路を歩いて脱出を試みるが、重傷を負っていた吉村は一行から落伍してしまう。24日、一行は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇。那須信吾は忠光を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死に、藤本鉄石も討ち死にし、負傷して失明していた松本奎堂は自刃した。一行から遅れていた吉村は27日に鷲家谷で津藩兵に撃たれて戦死。天誅組は壊滅した。

忠光は辛くも敵の重囲をかいくぐり脱出に成功、27日に大坂に到着して長州藩邸に匿われた。忠光は長州に逃れて下関に隠れていたが、禁門の変の後に長州藩の実権を握った恭順派(俗論党)によって元治元年(1864年)11月に絞殺された。

事件の後の文久3年(1863年)10月には、平野国臣が但馬国生野で代官所を襲撃して挙兵するも、幕府軍の追討を受けて敗北している。(生野の変

脚注

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関連項目

外部リンク

  • 岩城卓二「畿内の幕末社会」『講座明治新2 幕末政治と社会変動』(有志舎)2011年、pp.184-185。
  • 後に伊藤は松本奎堂の密書を岩倉具視に届けたと弁明しているが、岩倉具視と松本奎堂の関係を考えればあり得ないことである。伊藤三弥と同郷の碩学森銑三は「脱走者三弥の言い訳に過ぎない」と断じている。