大関増業

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テンプレート:基礎情報 武士 大関 増業(おおせき ますなり)は、江戸時代後期の大名下野国黒羽藩の第11代藩主。

黒羽藩の藩政改革にあたったが、家臣の反発を受けて隠居に追い込まれた。また、医学書・科学技術書の編纂で名を残している。

生涯

天明元年(1781年)、伊予国大洲藩主・加藤泰衑の八男として生まれる。

文化8年(1811年)、第10代藩主・大関増陽の養嗣子として迎えられた。同年10月1日、将軍徳川家斉にお目見えする。養父・増陽は28歳、それに対して養子の増業は31歳と、養父子の関係にありながら年齢差が逆であるという異例の養子縁組であった。その背景は、増陽が藩政改革に失敗して家臣団から責任を問われたことが挙げられるが、養子縁組の構想自体は藩士にはほとんど知らされることがなく、突然の決定であったという。このとき、黒羽の家臣団は養子に迎えるときに与えられる持参金(加藤家の)を互いに山分けしたとまで言われている。

文化8年11月24日、養父増陽の隠居により、家督を相続する。同年12月11日、従五位下土佐守に叙任する。文化9年7月25日、幕府から初めてお国入りする許可を得る。増業は、藩政改革に取り組むことを余儀なくされた。というのは、黒羽藩がわずか1万8000石の小藩であり、そのために財政が破綻寸前となっていたからである。当時、黒羽藩の年内における年貢の取立ては2万俵、金銭は2000両とされていたが、これはおおよその見当に過ぎず、実際の収益を誰も知らなかったのである。増業はこれに呆れ、大急ぎで役人に命じて厳格に調べさせた。すると、収益はその半分をわずかに過ぎる程度しかなかった。

そのため、増業は厳しい倹約令を出して経費節減に努めた。それと同時に、藩における商人から多額の金を借用した。財政再建のために増業が行なったことは、換金性の高い農産物の栽培と那珂川水運の整備、及び治水工事などであった。つまり穀物や野菜などは勿論のこと、煙草木綿胡麻蕎麦などの栽培を大々的に奨励したのである。

ところが川の水運工事に対して家臣団が猛反対し、文政7年(1824年)に増業に隠居を迫った(主君押込)。養子として入った増業には味方がなく、家督を先代・増陽の次男の増儀に譲って隠居することを余儀なくされた。同年7月8日、増業は隠居し、養子増儀に家督を譲った。

その後、増業は水戸藩徳川斉昭松代藩真田幸貫ら、江戸時代後期の名君と呼ばれる面々と交流しながら、学問に熱中した。もともと、学問好きだったため、藩主時代に記した『創垂可継』をはじめ、隠居時代においても医学書の『乗化亭奇方』や、後世において科学史・技術史書として評価された故実書の『止戈枢要』など、多くのジャンルに及ぶ著作を行なっている。

弘化2年(1845年)、65歳で死去した。

評価

藩主時代に行なった改革はある程度は成功を収めている点から、名君として評価されている。しかし現在、大田原市(旧黒羽町芭蕉の館にある増業の著書(大関文庫と呼ばれている)の方が、当時の医学や政治を知る上で貴重なものであると高く評価されている。

黒羽藩下屋敷跡は東京都荒川区の第6瑞光小学校の近くにあり、都電荒川線の線路脇の「大関横丁由来碑」に増業の業績が刻まれている。また、栃木県大田原市(旧黒羽町)の黒羽藩菩提寺・大雄寺家老風野家墓所内の石碑にも、増業が家老風野五兵衛明雅にあてた書状と増業の業績が刻まれている。

家族・親族

正室は堀田正敦の女。子は大関基充(長男)、大関昌滋(三男)らの四男三女。

外部リンク

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