大関増儀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大関 増儀(おおせき ますのり、文化8年8月27日(1811年10月14日) - 慶応元年12月13日(1866年1月29日))は、江戸時代後期の大名。下野国黒羽藩の第12代藩主。
第10代藩主・大関増陽の次男。正室は秋月種任の娘、継室は堀直庸の娘。子に大関増昭(次男)、娘(大関増裕正室)。官位は従五位下、伊予守。
父が隠居した年に生まれた。文政5年(1822年)6月、第11代藩主・増業の養子となる。文政7年(1824年)2月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年7月8日、養父増業の隠居により、家督を相続する。養父増業が藩政改革の方策で河川工事を行なおうとしたとき、増陽の時と同じく藩内保守派の反対を受けて隠居を余儀なくされたという。しかしこのため、藩内の実権は再び保守派の家臣に握られ、黒羽藩の財政は再び悪化した。
文政9年(1826年)12月16日、従五位下伊予守に叙任した。文政11年(1828年)6月、初めて黒羽城に入る。天保3年(1832年)、駿府加番を命じられる。天保5年(1834年)、大坂加番を命じられる。嘉永元年(1848年)2月11日、隠居し、次男・増昭に家督を譲った。隠居後、鶴山と号した。