大友親盛
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大友 親盛(おおとも ちかもり、永禄10年(1567年) - 寛永20年1月14日(1643年3月4日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。大友氏の家臣。大友義鎮(宗麟)の三男。田原氏庶流の武蔵田原家の当主で、田原親盛を称す。通称は民部少輔。子に大友親治。
生涯
永禄10年(1567年)、豊後国の戦国大名大友義鎮(宗麟)の三男として誕生。母は奈多夫人で、同母兄に大友義統、大友親家(田原氏宗家を継ぐ)がいる。
天正8年(1580年)に洗礼を受けキリシタンとなる、洗礼名はパンタレアン。大友氏の有力家臣で叔父である田原親賢が養子の田原親虎(ちかとら)を廃嫡し武蔵田原家の後継者が不在となると、天正9年(1581年)、親賢の婿養子となり、名を田原親盛と改め、妙見嶽城に入った。
父の宗麟は子の中でも親盛を最も信頼したとされ、島津氏との戦いである豊薩合戦においては、主に妙見嶽城を拠点に、秋月・島津両氏と内通した豊前国人衆の反乱への対処に奔走して豊前方面で活躍、戸次川の戦いでは先陣を務めた。また、豊後府内を脱出した兄・義統やキリスト教宣教師らを妙見嶽城に保護している。
天正20年(1592年)の文禄の役にも参陣したが、兄・義統の敵前逃亡を咎められたため、文禄2年(1593年)に大友氏が改易され、細川忠興に2000石で仕え(後に1000石加増)、名も松野半斎と改めた。
寛永20年(1643年)、死去。墓所は兄・親家と同じ熊本市岫雲院 (春日寺)。
参考文献
- ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史8 大友宗麟篇III 宗麟の死と嫡子吉統の背教』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203587-2テンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub