台与
テンプレート:基礎情報 君主 臺與(生没年不詳)は、日本の弥生時代3世紀に『三国志 (歴史書)』、魏志倭人伝中の邪馬台国の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性・壹與のことである。魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書』『北史』では「臺與」と記述されている。
「台与」は「臺與」の代用。臺與の表記・読みについては異説が多く詳細は後記。
目次
表記・読み
壹與
『三国志』魏書東夷傳の倭人之条、(通称魏志倭人伝、陳寿編纂、3世紀・晋代)では2写本系統とも「壹與」と記載されている。発音は「い(ゐ)よ」か?。代用表記は「壱与」。
臺與
『梁書』諸夷伝 倭(姚思廉編纂、636年・唐代)、『北史』東夷伝(李延寿編纂・唐代)などに記述[1]。代用表記は「台与」。
発音に関する議論
「臺與」を「とよ」と読むのが通説となっているが、これには議論がある。
- 「臺」の文字は中国の時代ごとにより、また地方ごとにより異なる。昔はdəと表現していた時もあった。「ト」「ド」の音韻の音節があるとすればこれに該当する。但し一般には「ダ」が主流であり、隋の時代に「ダイ」に変化し、それがそのまま今の日本の発音になり、中国ではその後に「タイ」と変化していった。
- 「台」であれば、「と」と読めるということに異論は無いようである。しかし、「臺」と「台」は異なる文字である[2][3]。
- 「臺」を「と」と読む根拠は、例えば藤堂明保『国語音韻論』[4]に、「魏志倭人伝で、『ヤマト』を『邪馬臺』と書いてあるのは有名な事実である」と記載されていることに求められているが、これはすなわち「邪馬臺=ヤマト」という当時の通説に基づいた記述に過ぎないとする指摘がある[5]。もしこの意見が妥当なら、漢和辞典の記載を根拠に「『邪馬臺』はヤマトと読める、『臺與』はトヨと読める」と言ったところで、大元にある通説の同義反復に過ぎないことになるが、「臺」の発音に関する中国語音韻論による議論はこの意見とは無関係である[6]。また、そもそも「魏志倭人伝」には「邪馬臺」とは書かれておらず、「邪馬壹」(=邪馬壱)と書かれており、前提からして誤っている。
- 邪馬臺(邪馬台)の発音をヤマドとする説がある[7]。
魏志の編纂が後者二書に比べ大きく先行している。三書はいずれも『魏略』[8]を元にしていると考えられる。『魏略』には他の書に引用された逸文[9]が残っているが、そこには該当部分は存在しないため正確にはどう書いてあったのか不明である。
事跡
魏志倭人伝によると、 テンプレート:Quotation とされる。このことから、卑弥呼の死と壹與の王位継承とは、張政が倭に渡った248年からそれ程年月が経っていないと思われる。その後、 テンプレート:Quotation とされる。
『日本書紀』の神功紀に引用される『晋書』起居註に秦始2年(266年)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、江戸時代にはこの女王は卑弥呼と考えられていたが、卑弥呼は250年までに死去してしまっていることから、近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。
なお、この年は、中国では曹操に始まる魏の曹一族から、司馬氏が建てた晋に禅譲革命が行われた翌年であった。
この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である。
台与と後のヤマト王権との関係は諸説あってはっきりしない。人物の比定については諸説ある(#人物の比定についての議論を参照)。
人物比定
台与を誰に比定するかという議論は、卑弥呼が誰であるかという議論、邪馬台国がどこにありどんな国家に受け継がれていったかと言う議論と、切り離すことができない。
豊鍬入姫命説
崇神天皇の皇女である豊鍬入姫命に比定する説。天皇の命で天照大神を祭った初代斎宮が臺與に当たるという説であり、この説の場合は卑弥呼をヤマトトトヒモモソヒメノミコトと比定することが前提[10]だが、卑弥呼をヤマトトトヒモモソヒメノミコトに比定する説は箸墓古墳の研究などから勢いを増している。
豊姫説
神功皇后の妹の豊姫。 戦前は多数の文献に姿を現していた有名人で人気者だった。肥前国風土記の神名帳頭注より「人皇卅代欽明天皇の廾五年(564年)甲申、肥前國佐嘉郡、與止姫神鎭座。一名豐姫。」とある。故に神功皇后の宋女にも当てはまる。なお神功皇后は30代の時に夫である仲哀天皇を失ってずっと未亡人であり夫がいない状態でこれも魏志倭人伝と記紀の記述と合致する。弟も息長日子王で特定されていた。但し卑弥呼は神功皇后ではなく、残りのこの残された二人のお后のどちらかであるという説がある。江戸時代から明治の時代そして第二次世界大戦前までは神功皇后は実在の人物として教科書などに記載されていた。しかし敗戦後にGHQの指導の下で神功皇后が教科書からその名を一斉に削除された。今では教科書に載る事はなく知名度もほとんどない神功皇后と共に架空説が唱えられている。
2人のアマテラス説
一説には、「日本神話の天の岩戸伝説の前後の天照大神は別の人物であり、それぞれ卑弥呼と台与である」として「アマテラスを誰に比定するか」という議論とともに考えようとするものがある[11]テンプレート:信頼性要検証。卑弥呼没年前後の皆既日食[12]によって岩戸隠れの故事を説明しようとする説である。
万幡豊秋津師比売説
卑弥呼をアマテラスに比定する場合の説。万幡豊秋津師比売(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)は高御産巣日神(タカミムスビ)の娘。アマテラスの息子アメノオシホミミと結婚し、アメノホアカリとニニギの母となった。アマテラスの極めて近い親族で名前の中に「トヨ」の文字がある彼女を臺與に比定する説で、安本美典が『新版・卑弥呼の謎』(講談社現代新書)で述べている。彼女はアマテラスが主祭神である伊勢神宮の内宮の相殿神の一人であり[13]、安本はそれをこの説の根拠のひとつとしている。
天豊姫命説
尾張氏、海部氏の祖彦火明、七世孫建諸隅命の子、天豊姫を臺與とする説。この人の二世代前に卑弥呼と思われる、日女命がある。[14]
台与(壱与)が登場する作品
小説
- 定金伸治『kishin -姫神-』(集英社/集英社スーパーダッシュ文庫、2001年)
漫画
- 寺島優(原作)、藤原カムイ(作画)『雷火』(初出はスコラ・現出版元は角川書店/Kamui Collection、2000年 - 2001年・連載は『コミックバーガー』1987年 - 1997年)
- 矢吹健太朗『邪馬台幻想記』(集英社/ジャンプ・コミックス、1999年・連載は『週刊少年ジャンプ』1999年12号 - 同年29号)
- 山岸凉子『青青の時代』(潮出版社/希望コミックス、1999年 - 2000年・連載は『comicトムプラス』1998年5月号 - 2000年2月号)