城長茂
城 長茂(じょう ながもち)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての越後国の武将。諱は助職、資職(すけもと)とも。越後平氏の一族で城資国の子。
略歴
治承5年(1181年)2月、平氏政権より信濃国で挙兵した源義仲追討の命を受けていた兄の城資永が急死したため、急遽助職が家督を継ぐ。同年6月、兄に変わって信濃に出兵した。資永は平家より絶大な期待を寄せられていたが、助職は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく、1万の大軍を率いていながら3,000ほどの義仲軍の前に大敗した(横田河原の戦い)。その直後、助職は奥州会津へ入るが、そこでも奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされる(『玉葉』寿永元年七月一日条)。
同年8月15日、平宗盛による源義仲への牽制として越後守に任じられる。都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している。この頃、諱を助職から長茂と改めた。
しかし越後守となるも長茂は国衙を握る事は出来なかった。寿永2年(1183年)7月の平家都落ちと同時に越後守も罷免された。
その後の経歴はほとんどわかっていないが、元暦2年(1185年)に平氏が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時に身柄を預けられる。文治5年(1189年)の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた。
頼朝の死後、梶原景時の変で庇護者であった景時が滅ぼされると、1年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げる。正治3年(1201年)、軍を率いて景時糾弾の首謀者の1人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた(建仁の乱)。享年50。
身長は七尺(約212cm)の大男であったという。