城資永
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
城 資永(じょう すけなが)は、平安時代末期の越後国の武将。父は越後平氏の一族である城資国。母は清原武衡の娘。諱は資長、助永とも。
略歴
城氏は平国香の次男・繁盛の流れを汲む名族で、平氏政権期において越後国を支配していた。資永はその棟梁として、保元の乱においても平清盛に従い活躍、都で検非違使を努めていたこともある。北国における親平家豪族の筆頭として、清盛らの信頼は厚かった。
清盛の死後の治承5年(1181年)、後を継いだ平宗盛から信濃国で挙兵した源義仲の追討を命じられる。自信に満ちた資永は「甲斐・信濃両国においては、他人を交えず、一身にして攻落すべき由」と平家に願い出たという(『玉葉』治承4年12月3日条)。平家の絶大な期待の元、越後国、会津四郡、出羽南部の軍兵一万を集めるが、出陣直前の2月24日に卒中を起こし、翌25日に急死した。資永の急死は相次ぐ反乱の対処に追われる平家に大きな打撃となった。
資永の後は弟の助職(長茂)が継ぐが、平家の没落とともに徐々に衰退を余儀なくされた。