藤原秀衡

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藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)は、平安時代末期の武将奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍陸奥守藤原基衡の嫡男。

生涯

北方の王者

保元2年(1157年)、父・基衡の死去を受けて家督を相続する。奥六郡の主となり、出羽国陸奥国押領使となる。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職であり、諸郡の郡司クラスを主体とする武士団17万騎を統率するものであった。

この頃、都では保元の乱平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えるが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として下向した院近臣藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。

嘉応2年(1170年)5月25日、従五位下・鎮守府将軍に叙任される。右大臣九条兼実は秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いている。都の貴族達は奥州藤原氏の計り知れない財力を認識し、その武力が天下の形勢に関わる事を恐れながらも、得体の知れない蛮族と蔑む傾向があった。

治承・寿永の乱

安元の頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育する。治承4年(1180年)、義経の兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとする。秀衡は義経を強く引き止めたが、義経は密かに館を抜け出した。秀衡は惜しみながらも留める事をあきらめ、佐藤継信忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出した。

養和元年(1181年)8月25日、秀衡は従五位上・陸奥守に叙任される。同時に越後国豪族城長茂も越後守に任じられている。これらは平清盛亡き後に平家の棟梁となった平宗盛の推挙によるもので、前年に挙兵した鎌倉の頼朝や源義仲を牽制する目的であった。九条兼実はこの叙任も「天下の恥、何事か之に如かんや。悲しむべし、悲しむべし」と嘆き、また参議吉田経房も「人以て磋嘆(さたん、なげくこと)す。故に記録すること能わず」と日記『吉記』に記している。秀衡は平家の「位うち(官位を与え荷担させる)」に乗る事はなく、治承・寿永の乱の内乱期に源義仲や平氏からの軍兵動員要請があっても決して動く事はなかった。一方で元暦元年(1184年)6月、平家によって焼き討ちにあった東大寺の再建に奉じる鍍金料金を、頼朝の千両に対して秀衡はその五倍の五千両を納め、京都の諸勢力との関係維持に努めている。平泉は京都と坂東の情勢を洞察した秀衡の外交的手腕によって、戦禍に巻き込まれる事なく平和と独立を保ち続けた。

秀衡対頼朝

しかし文治2年(1186年)、平家を滅ぼして勢力を拡大してきた鎌倉の頼朝は「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけてくる。源氏の仲介など無しに、直接京都と交渉してきた藤原氏にとっては無礼な申し出であり、秀衡を頼朝の下位に位置づけるものであった。秀衡は直ちに鎌倉と衝突する事は避け、馬と金を鎌倉へ届けた(『吾妻鏡』4月24日条)。頼朝の言い分を忠実に実行する一方で、もはや鎌倉との衝突を避けられないと考えた秀衡は文治3年(1187年)2月10日、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化する事を覚悟で受け容れる。

文治3年(1187年)4月、鎌倉ではまだ義経の行方を占う祈祷が行われている頃、頼朝は朝廷を通して以下の三事について秀衡に要請してくる[1]

  1. 鹿ケ谷の陰謀で平清盛によって奥州に流されていた院近臣・中原基兼が、秀衡に無理に引き留められて嘆いているので、京へ帰すべきである事。
  2. 陸奥からの貢金が年々減っており、東大寺再建の鍍金が多く必要なので三万両を納める事
  3. 度々追討等の間、殊功無き事

等である。

秀衡は、

  • 基兼については大変同情をもっており、帰さないのではなく本人が帰りたがらないのであり、その意志を尊重しているだけである。まったく拘束しているのではない。
  • 貢金については三万両は甚だ過分であり、先例で広く定められているのも千両に過ぎない。特に近年商人が多く境内に入り、砂金を売買して大概掘り尽くしているので、求めには応じられない

と返答している。頼朝は秀衡が院宣を重んぜず、殊に恐れる気配がなく、件の要請も承諾しないのはすこぶる奇怪であるとして、さらに圧力をかける事を要請している(『玉葉』文治3年9月29日条)。9月4日、義経が秀衡の下に居る事を確信した頼朝から「秀衡入道が前伊予守(義経)を扶持して、反逆を企てている」という訴えにより、院庁下文が陸奥国に出された。秀衡は異心がないと弁明しているが、この時頼朝が送った雑色も陸奥国に派遣されており、「すでに反逆の用意があるようだ」と報告しており、朝廷にも奥州の情勢を言上している。

このわずか2ヶ月後、義経が平泉入りして9ヶ月後の文治3年(1187年)10月、秀衡は病に倒れる。この病は後の遺体調査から脳梗塞か脳溢血の類と推測されている(後述)。

最期

家督は側室腹の長男・国衡ではなく、正室腹の次男・泰衡が継いだ。秀衡は両者の和融を説き、国衡に自分の正室である藤原基成の娘を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言して没した(『玉葉』文治4年正月9日条)。兄弟間の相克を危惧しながらの死であった。しかし、跡を継いだ泰衡は義経派であった弟達を殺害し、頼朝に屈して義経を襲撃し自害させ、首を鎌倉へ差し出した。しかし頼朝の目的はすでに義経ではなく奥州であり、奥州合戦で鎌倉の大軍に攻められた平泉はあっけなく陥落、泰衡も家臣の裏切りで討たれ奥州藤原氏は滅亡した。奥州合戦から6年後の建久6年(1195年)9月29日、平泉の寺塔修理に派遣された葛西清重らによって秀衡後家(基成の娘)の生存が確認され、憐れんだ頼朝から庇護するように命が出されている。

人物

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藤原秀衡(菊池容斎『前賢故実』)
  • 冷静沈着にして豪胆な人物であったといい、登場する作品においても英邁な君主として描かれることが多い。
  • 砂金の産出や大陸との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地にまさに王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げている。
  • 外交に関しては、巨大な経済力をバックに朝廷や平氏政権と友好的な関係を維持しながらも義経を匿うことで源氏とのパイプも築きつつ、平氏の勢力が衰えた後は、頼朝と平和的な関係を築きながらも、追われる義経を平泉へ受け入れ頼朝からの襲撃に備える等、かなりの政治巧者ぶりを見せている。
  • 舅である藤原基成は元院近臣であり、近親者に後白河法皇の側近が多数存在していた。義経の実母・常盤御前の再婚相手の一条長成もその一人であった。
  • 死後わずか2年で奥州藤原氏は滅びるが、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物と言える。

金色堂に眠る秀衡

秀衡の遺骸はミイラとなって現在も平泉にあり、中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められている。昭和25年(1950年)3月の遺体学術調査(『中尊寺と藤原四代』朝日新聞社編、昭和25年8月30日刊行、中間報告)では、金色堂の西北(堂に向かって右)が基衡壇、西南(堂に向かって左)が秀衡壇として調査が行われたが、その後の最終報告によると基衡と秀衡の遺体が逆である事が判明し、現在は向かって右の西北が秀衡壇とされている。平成6年(1994年)7月に中尊寺により上梓された『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』によると、秀衡は血液型A型、身長は三代中もっとも高く167cm。太く短い首、福々しい顔。よく発達した胴、胸幅は厚く広い、いかり肩で腰から下は比較的小さい。肥満体質で歯にカリエス、歯槽膿漏。右側上下肢に軽度の骨萎縮が見られ、右半身不随あり、脳溢血、脳栓塞などで急死したとみられる。

ミイラを基にした秀衡の復顔模型が存在する(参照)。

脚注

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参考文献

  • 高橋崇 『奥州藤原氏』 中公新書、2002年。

藤原秀衡を題材とした作品

藤原秀衡が登場した作品

テレビドラマ

関連項目

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  1. 玉葉』文治3年9月29日条