坂東三津五郎 (10代目)

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テンプレート:歌舞伎役者 十代目 坂東 三津五郎(じゅうだいめ ばんどう みつごろう、1956年昭和31年)1月23日 - )は、日本俳優歌舞伎役者。日本舞踊坂東流家元。前名の五代目坂東八十助(ごだいめ ばんどう やそすけ)でも知られる。屋号大和屋定紋三ツ大、替紋は花勝見。本名は守田寿(もりた ひさし)。歌舞伎名跡坂東三津五郎」の当代。

青山学院大学文学部中退。

長女に女優の守田菜生、長男に二代目坂東巳之助。また女優池上季実子は従妹にあたる。


来歴・人物

坂東三津五郎家江戸三座のひとつ守田座座元の守田勘彌家と家系が近く、十二代目守田勘彌の長男が養子に入って七代目坂東三津五郎となったことから本名が守田姓となっている。その七代目三津五郎の養子・八代目坂東三津五郎の長女・喜子を母に、婿養子・四代目坂東八十助(後の九代目坂東三津五郎)を父に、守田寿は生まれた。守田家では七代目三津五郎以来の男児だったので、七代目の本名「壽作」(じゅさく)にあやかって「寿」(ひさし)と命名された。

近年では十一代目市川海老蔵襲名披露興行において、白血病を発症した十二代目市川團十郎の代役として出演する活躍を見せた。

2013年8月、すい臓に腫瘍が判明し手術・治療のため入院。これにより「九月大歌舞伎」並びに「歌舞伎座特別舞踊会」を休演することになった[1]

年譜

人物・逸話

  • 私生活では二度の結婚・離婚を経て現在独身。
    • 初婚は1983年に元宝塚歌劇団雪組花組男役準トップスターを務めた寿ひずるを迎え菜生を含む女児ふたりと、二代目巳之助を授かるが後に離婚した(当時、三津五郎の実家の家族らと寿との結婚以来の諸々の確執や、近藤サトほか三津五郎に複数の女性関係等の噂などが取沙汰された)。また三人の子の親権は三津五郎が、養育権は寿がもったエピソードもあるがこれは寿が離婚で子の姓が変わるといじめなど不利益にならないかという心配や、寿が若くして実父と死別(宝塚在団中)したつらい経験から子を手放したくない旨三津五郎に申し入れていたといわれる。
    • 寿と離婚成立後近藤サトと1998年に再婚したが、2000年に離婚。近藤との間には子はない。
  • 生まれは日本橋小伝馬町だが、育ちは青山で、少年時代は近所の根津美術館や青山の都電車庫(現在その跡地にこどもの城が建っている)などでよく遊んでいたと自著で記している。
  • また、同い年で幼馴染の十八代目中村勘三郎との交友ぶりはよく知られ、勘三郎の企画に名を連ねることが多かった。2012年12月5日の勘三郎の訃報を聞き、無言の帰宅をした勘三郎宅に駆けつけ、盟友の死に「人生の半分をもぎ取られたようだ」というコメントを残している。
  • 自他共に認める大の城郭建築好きで知られ、三津五郎も「日本国内で行ったことのない城は、ひとつかふたつだけ」とコメントしているほどである。(『NHK大河ドラマ・ストーリー功名が辻 前編』NHK出版、2006年 101ページより)

出演作品

当たり役

  • 『六歌仙容彩』の喜撰法師
  • 倭仮名在業系図』(蘭平物狂)(やまとかな ありわら けいず、通称:らんぺい ものぐるい)の奴蘭平
  • 新皿屋舗月雨暈』(魚屋宗五郎)(しんさらやしき つきの あまがさ、通称:さかなや そうごろう)の宗五郎
  • 勧進帳』の武蔵坊弁慶

近代劇

テレビドラマ

映画

ドキュメンタリー・情報番組

CM

著書

脚注

  1. テンプレート:Cite news
  2. テンプレート:Cite news

外部リンク

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