在外ロシア正教会
在外ロシア正教会(ざいがいろしあせいきょうかい、テンプレート:Lang-en、あるいは Russian Orthodox Church abroad, テンプレート:Lang-ru)は、ロシア内戦中に白衛軍(白軍)統治下で最高教会管理局を運営した主教を中心としたメンバーによって1921年に組織された教会組織。
以来ロシア正教会モスクワ総主教庁と関係を絶ち、ソビエト連邦外で活動していたが、ソ連崩壊後、2007年にロシア正教会と和解し、モスクワ総主教庁の庇護の下、準自治教会 (Semi-autonomous) としての地位が与えられている。
名称
「在外シノド系ロシア正教会」、「ロシア国外のロシア正教会」とも訳されるが、最近の学術論文では「在外ロシア正教会」が一般的である。当初、セルビアのカルロヴツィに本部を置いたため、他国では「カルロヴツィ・シノド」という表記が一般的な場合もあるが、日本では一般的ではない上に、本部がカルロヴツィに置かれていた期間も長くないため、これはそれほど適切な呼称とは言い難い。
概要
長らく旧ソ連時代を通じて無神論を標榜する共産主義政権の影響下にあったモスクワ総主教庁の権威の正当性と、当局の圧力下・検閲下で表明される意思の真正性に対する疑問から、ロシア正教会と関係を絶っていた。このため、他の正教会組織からも教会法上非合法と看做されていた(正教会は必ずいずれかの独立教会から承認を受けなければ教会法上合法と看做されない)。
しかし旧ソ連崩壊後、モスクワとの間に和解交渉が始められ、2007年5月17日にロシア正教会と在外ロシア正教会の間に和解が成立。現在では在外ロシア正教会はモスクワ総主教庁の庇護の下、準自治教会(Semi-autonomous)としての地位が与えられている。
2008年3月16日、モスクワ総主教庁との和解を成立させた首座主教であったラウルス府主教が永眠した。
歴史
モスクワの教会の管理の及ばない白衛軍統治下において独自の教会管理局が設置されたことについては、モスクワ総主教ティーホンが、隣接する教区との合同を条件に認めている(ティーホン総主教は当初は無神論を標榜する共産主義革命に対して激烈に非難する姿勢を示していた)。
しかし、この教会はまもなくロシア革命に反対し、帝政の再興を呼びかけるメッセージを発したため、革命政府の各地における信徒への弾圧のあまりの苛烈さから一定程度の宥和姿勢に転じたティーホン総主教から非難された(しかしこうした宥和姿勢も空しく、ティーホンは投獄され致命した)。
ティーホンは、在外ロシア最高教会管理局の閉鎖と、これに代わる管理局の設置を要求した。この要求を受け、在外ロシア正教会では、教会会議に一般信徒の参加を認めた従来の教会管理局ではなく、一般信徒の所属できない、主教シノドによって運営される組織へと再編された。一般信徒が教会運営から排除されたことには理由があった。というのも、上述のメッセージについては聖職者の半数の反対があったにもかかわらず、大半の一般信徒の支持があったからである。民主的な教会では、重要な事柄に関する投票においても教会法に無知な一般信徒に投票権が与えられたのである。
さて、この教会の存在について同時代人はしばしば主教職の亡命の是非を問うた。確かに、主教職は自ら任ぜられた主教区を勝手に離れてはいけないという規則が教会にある。しかし、主教たちが最高管理局設置のためにひとつところに集合したあとになって、彼らの主教区が赤軍に占領されてしまった場合、また、軍隊により捕縛、連行されてしまった場合、この規則を適用すべきかどうかは大変疑問である。
もうひとつ同時代人によって取り上げられた問題は、亡命した主教たちが中心となって設置した最高教会管理局が在外にあるロシア教会のすべてを管理することの是非である。これは、先のティーホン総主教が出した条件に従えば、在外にあるロシア教会はモスクワからの管理を求めるか、あるいはそれが不可能な場合、隣接する主教区との合同で最高教会管理局を設置せねばならない。この場合、モスクワからの管理を求めるという建前で独自の教会運営を図るという行為は、分派活動であるが、実際にはパリを中心とした教会グループは一時、この手法を取った。アメリカのロシア系正教会(通称:北米メトロポリア)は、在外ロシア正教会の管理もソ連のもとにあるロシア正教会の管理も拒否し、独立の立場を主張した。パリを中心としたグループは第二次大戦終了直後に、アメリカのロシア教会は1970年にそれぞれモスクワのロシア正教会と和解している(この時、独立教会アメリカ正教会が成立している)。しかし、在外ロシア正教会は、この「和解」の非合法性を訴えている。
その訴えの中心にあるのは、1927年にモスクワの府主教セルギイ・ストラゴロドスキイ(日本正教会の府主教セルギイ・チホミーロフとは別人)が公にした「忠誠宣言」である。セルギイは、忠実な正教徒は同時に忠実なソヴィエト市民であることができると訴え、ロシア国内の信徒には、「教会に配慮してくださる」ソヴィエト政府に感謝し、在外のロシア教会の聖職者に対してはソヴィエト政府に忠誠を誓う文書を提出するように要求した。在外ロシア正教会の指導者たちは、ソヴィエト政府が教会に対して為した迫害を訴えてこの要求を拒否したため、セルギイおよびその後継者たちから「罷免」され、分派とみなされた。第二次世界大戦で、ヨシフ・スターリンに対独戦における協力を申し出たセルギイ府主教は、ティーホン総主教没後、はじめて総主教に「選出」されることをスターリンによって認められた。セルビアに事務局を置いていた在外ロシア正教会指導部は、赤軍のセルビア接近に伴い、ヨーロッパを移動し、最後にアメリカ合衆国に行き着いた。
戦後、セルギイはすぐに永眠し、その後継者となったアレクシイ総主教は、在外ロシア正教会指導者に対して和解を呼びかけたが、拒否された。
ソ連崩壊後 - 和解
ソヴィエト体制崩壊後、セルギイ府主教の後継者が管理するモスクワ総主教教会と在外ロシア正教会の間で再び和解交渉が行われていた。それまで、モスクワ総主教教会は、在外ロシア正教会について否定的に叙述している冊子の再版を促していた。ちなみに、著名な作家であるアレクサンドル・ソルジェニーツィンは、かつて在外ロシア正教会とモスクワ総主教の両方に和解を呼びかけたことがある。
2007年5月17日、モスクワにてモスクワ総主教教会と在外ロシア正教会の双方が和解文書に調印し、和解が成立し、それまで公式には認められていなかった在外ロシア正教会信徒の他の正教会での領聖が認められるようになり、在外ロシア正教会は主流派正教会における教会法上の合法性を回復した。