土岐頼次
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土岐 頼次(とき よりつぐ、天文14年(1545年) - 慶長19年11月10日(1614年12月10日))は土岐頼芸の次男。生母は佐々木定頼(六角定頼)の娘。通称は二郎、左馬助、見松。
兄・土岐頼栄が父によって廃嫡されたため、土岐氏の後継者に選ばれた。父とともに斎藤道三によって美濃を追われた後は大和の松永久秀を頼った。その後、豊臣秀吉に馬廻として仕え、1587年に河内古市郡内に500石を与えられた。さらに、徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、本領を安堵されて、旗本になった。慶長19年(1614年)11月10日伏見において死去、70歳。
正妻は湯島武房の娘。長男頼勝、二男頼高、三男頼泰ら三男一女あり。長男頼勝の子孫は、高家旗本として、三男頼泰の子孫は旗本として幕府に仕えた。