国鉄C59形蒸気機関車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年8月13日 (火) 14:08時点におけるC57180 (トーク)による版 (営業最高速度追記)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Locomotive

国鉄C59形蒸気機関車(こくてつC59がたじょうききかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が設計した、幹線旅客列車テンダー式蒸気機関車である。愛称はシゴクまたはシゴキュウ

誕生の背景

本形式の設計が開始された1930年代末には、東海道山陽の二大幹線の旅客列車、特に特急や急行などの優等列車は、主にC53形が牽引していた。だが、このC53形は3気筒の搭載により低重心化とスムーズな走行性能が得られた反面、複雑なグレズリー式弁装置を備えており、その実設計において設計陣がこの機構を十分理解していなかったこともあって、整備検修においては致命的と言って良い欠陥があった。このため同形式は故障等による年間の平均休車日数が他形式と比較しても格段に大きく、保守が容易で同等以上の性能を備える新型機関車を求める声は日増しに高まっていた。

C53形が97両をもって製造終了となった1930年以降、その後継となる新型旅客用機関車の設計を巡っては、同時期に南アフリカ国鉄が看板列車であったユニオンリミテッド用として設計した16E形[1]が1,830mm径の大径動輪を備えていたことも影響して、これを上回る1,850mm径の動輪を備えた計画機[2]など、様々な検討が行われていた。

だが、そういった強力機を運行するには、当時の日本国内では最良の条件を備えていた東海道・山陽本線であってさえ設備が貧弱に過ぎた。そのため、最終的にC59形として完成することになる、C53形の後継となるべき新型旅客用機関車は、C51形以来の1,750mm径動輪を備え、施設側が許容する上限である、16.8t[3]の動軸重の範囲で設計されることとなった。

構造

機関車本体の下回りはC51・C54C55形C57形と続いた鉄道省制式2気筒パシフィック機のそれを基本とし、ボイラーは設計時期が先行したD51形のものを基本としつつ[4]ボイラー圧力を引き上げ[5]、しかも長煙管構造とした[6]

このため台枠は棒台枠、動輪はC57形と類似の1,750mm径ボックス輪芯、弁装置はワルシャート式、先台車はエコノミー式復元装置を備えるLT219[7]、そして従台車はばね式のLT156・156A[8]が採用され、ボイラーも鉄道省制式機では一般的な3缶胴構成[9]のストレートボイラー[10]とされた。

また、シリンダーはボイラー使用圧力の高圧化に合わせてC51形と同じ行程のままで直径を縮小[11]してあり[12]、シリンダブロックには通風を穏やかにする目的で排気膨張室[13]が組み込まれている。ピストンはC57形より採用されたH型断面のものが採用された[14]

運転台は各部寸法についてC57形のそれを基本としつつ、C58形と同様の密閉構造としたもので、これは戦後製造されたC61C62形にも踏襲された。

炭水車は航続力の確保を目的として、石炭10tと25m³の水を積載可能な10-25・10-25A・10-25B形[15]である。

全長は21,575mm(戦後型)で、C62形の21,475mmを上回り国産最長の蒸気機関車である。

製造

川崎車輛汽車製造日立製作所の3社により、1941年(昭和16年)から1943年(昭和18年)までに100両、戦後1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)までに73両の合計173両が生産された。ただし、番号は1 - 132・156 - 196で、戦後製造分に割り当てられていた133 - 155は緊縮財政下でキャンセルされ、欠番となっている。

年次別の製造状況は次のとおりである。

  • 1941年(27両) : C59 1 - 15・28 - 37・44・45
  • 1942年(38両) : C59 16 - 27・38 - 43・46 - 65
  • 1943年(35両) : C59 66 - 100
  • 1946年(42両) : C59 101 - 118・156 - 179
  • 1947年(31両) : C59 119 - 132・180 - 196

メーカー別の製造状況は次のとおりである。

  • 汽車製造
    • C59 1 - 10(製造番号2000 - 2002・1993 - 1999)
    • C59 28 - 43(製造番号2120 - 2129・2150 - 2155)
    • C59 91 - 100(製造番号2272 - 2281)
  • 川崎車輛
    • C59 11 - 15(製造番号2549 - 2553)
    • C59 44 - 80(製造番号2614 - 2618・2624 - 2628・2634 - 2645・2832 - 2846)
    • C59 101 - 132(製造番号3117 - 3148)
  • 日立製作所
    • C59 16 - 27(製造番号1500 - 1511)
    • C59 81 - 90(製造番号1689 - 1698)
    • C59 156 - 196(製造番号1991 - 2031)

なお、C59 1は汽車製造の、C59 165は日立製作所の製造番号2000番にあたる。

運転

デビュー当初から特急の先頭に立ち、C59形はC62形の登場まで特急の花形で、C62形の登場後もお召列車には本形式が充当されたことからもわかるように、現場の信頼も極めて高かった。

しかし、本形式、特に戦前形においては設計・製造上の問題点が幾つか存在した。一つは、従台車の荷重負担が過大となったこと、一つはボイラーの天井板が膨らむこと、もう一つは長煙管が祟って熱効率が低いこと[16]である。

従台車については、車輪径が小さかったことから摩耗率が異様に高くなり、しかも摩耗が進んだ状態のものを中心にタイヤ部に亀裂が入る、発熱でタイヤ部が頻繁にゆるむ、などのトラブルが頻発した。これは長く重いボイラー[17]であり、また、火室など重量のかさむ部位が集中し重量配分の点で厳しくなりがちな後部について、燃焼室を設けて軽くするという配慮を欠いた結果[18]、重心位置が車両後方に偏って重量配分の制約が生じ、そのしわ寄せが従台車にいってしまったことが原因で、本形式の従軸軸重は約14.7tと幹線用機関車の動軸並みの値[19]となっていた。この問題については最後まで解決せず、保守担当者レベルでタイヤ摩耗に伴う交換時期を他の形式よりも厳しく管理することで、かろうじて致命的問題の発生回避が図られる状況であった。

ボイラー天井板の膨らみは、準戦時体制下で製造された本形式の場合設計レベルでは回避不能の問題であった。なぜなら、材料となる鋼板の圧延品質の著しい低下[20]によるものであったためである。これは状態が悪かった一部については、ボイラー内火室部分の新製交換で対処されたが、後に交換工事未施工の戦前形が優先的に淘汰される一因となった。

長煙管と煙管断面積の不足により通風が悪くなり、そのために石炭の燃焼が悪く未燃ガス損失が増大して熱効率が低くなる問題は、本形式の設計を担当した鉄道省工作局車両課や各メーカーが本来燃焼室の付加による効率引き上げを意図して設計していた[21]にもかかわらず、車両研究会での検討の結果、ボイラー内の煙管折損などが発生しやすく保守に難があるとして見送りとされたことに原因があった[22]。この問題は、煙管を短縮して一般的な5,500mm長として燃焼室を付加した、つまり設計陣が当初想定したとおりの仕様で製造された戦後形で解決を見ており、長煙管仕様には熱効率の点で大きな問題があったこと[23]が判る。

戦前形については戦後になって内火室交換に伴って燃焼室を設けた機が1号機をはじめ何両か存在するが、残る大半の機体はそのままの仕様で運用され続けることとなった。

戦後形C59は全伝熱面積に占める過熱面積の割合が国鉄蒸機中では最も高く、これにより理論上は過熱温度が国鉄制式機関車中で最高[24]となる。実運用上でも、白河越えを担当した機関区で「他に比べて蒸気の上がりが良い」と言われていた。

こうした好評と不具合を抱えつつ運用された本形式であるが、戦前には軍部の反対で電化が実施できなかった東海道・山陽本線が、戦後になって石炭不足対策も兼ねて急ピッチで電化を進められたため、本来の用途を失い早々と余剰が生じることとなった。

本形式は動軸重が平均16.2tと特甲線である東海道・山陽本線以外では転用可能線区が少なく、一部は亜幹線にも使えるように従台車を2軸化して動軸重を15tへ減らす改造を受け、C60形となった[25]

改造を受けなかった車両の一部は東海道・山陽本線並みの線路規格を持つ呉線鹿児島本線門司港 - 熊本間)、東北本線上野 - 一ノ関間、最終期は臨時運用で盛岡までの運用実績あり)へ転じ[26]、C60形となった車両は乙線規格に従う東北本線、常磐線奥羽本線秋田 - 青森間)、鹿児島本線鳥栖以南)、長崎本線の各線に入線し、引き続き特急・急行列車牽引にも使われた。

やがてこれらの路線も電化されたため、多くの車両がまだ十分に使える状態でありながら、C59形・C60形とも1970年までに運用からはずされ、全車廃車となった。

糸崎機関区に配置されていた本形式の中には瀬野八越えを行う急行などの旅客列車のスピードアップのため補機運用[27]に充当されることがあった。現存する164号機にはこの運用の際に使用した走行開放用の開錠装置[28]が前部連結器横に取り付けられたままになっている。

本形式最後の定期運用となったのは糸崎機関区での呉線運用であり、ここではC62形と共に急行「安芸」などを牽引した。特に編成が長く換算重量も大きい「安芸」などの重量級寝台急行列車の牽引では、C62形と比較してわずかに動軸重が大きく勾配区間で空転しにくい本形式が好まれ[29]、重点的に充当された。最後まで糸崎区に在籍していたのは戦後形の161・162・164の3両であったが、これらも1970年の呉線電化で余剰となり、161・162号機は廃車、動態保存機に指定された164号機は一時的な保管先の奈良機関区を経て保存先の梅小路機関区に転属となっている。

特徴あるC59

  • 16・31号機 : 煙室前面が角形(戦後施工)
  • 67号機 : ブラウン試験塗装
  • 79号機 : グリーン試験塗装・燃焼室・E形過熱装置・消煙装置試用
  • 80号機 : 燃焼室・E形過熱装置試用
  • 108号機 : お召指定機
  • 124号機 : 門鉄デフを装着
  • 127号機 : 重油専燃機

重油専燃試作機

127号機は、重油を燃料とするための試作改造を1954年鷹取工場で施された。テンダーは石炭庫が重油タンクとなり、燃焼室も火格子を撤去するなど大規模な改造となった。改造後、直ちに準急ゆのくに」専用機として、京都 - 米原間で使用された。専任の機関助士を置いて運用にあたり、他の石炭焚きの機関車に比べ圧倒的に楽な乗務で、なおかつ出力も増大し、EF58形と平行ダイヤが組めるとまで評された。東海道本線電化の後、盛岡機関区に転出し、東北本線の盛岡 - 一戸間で補機として試用されたが、ほどなくして鷹取工場へ戻され、1960年に廃車・解体された。

燃焼室・E形過熱装置試用機

1943年に川崎車輌で落成した79・80号機は煙管長を5,500mmへ短縮し、缶胴を4缶胴構成として内火室に燃焼室を設け、アメリカや南満州鉄道で使用されていたシュミット式E形過熱装置[30]を取り付けて落成した。

燃焼室は燃焼効率の引き上げに効果があった[31]が、E形過熱装置は煙管の燃焼ガス通過抵抗が大きい本形式の場合、十分な効果が得られずまたその保守も面倒であったため、後年標準のA形過熱装置に交換されている。

なお、79号機は広島第二機関区に在籍していた1951年に火室内部に蒸気を噴射して燃焼ガスの混合を改善する消煙装置の試用にも供されて好成績を挙げたが、これも実用化には至らず終わった。

運転室整備機

C59形は運転台側窓より前方の奥行きが深いことから、天候や時間によっては運転台内部が暗くメーター類の視認など運転上支障になることがあった。 このため採光窓を増設する工事が数種類行なわれた。

鷹取工場形運転台改善機

鷹取工場では前面窓を張り出させ、側面に明かり窓を増設した。

  • C59 64 - 明かり窓は角形
  • C59 175 - 明かり窓は長円形

広島工場形運転台改善機

広島工場では1954年から1955年にかけて「完全整備車」の一環として改造が行なわれた。

  • 初期形1 : C59 67 - 側窓を拡張、ガラス2枚(同時に塗色をブラウンに変更)
  • 初期形2 : C59 79・95 - 側窓を拡張、ガラス3枚(79号機は塗色をグリーンに変更)
  • 量産型 : C59 39(後にC60 36に再改造)・51・83・94・123・131・157・159・162・172・177・187・191・192・195 - 固定式の明かり窓を前方に新設、合わせて側窓を下方へ拡張

同様の改造はC57形やD52形においても少数であるが行なわれている。

保存機

全体保存

一部がC60形に改造されたことや、大半が1970年代までに廃車されたため、全容をとどめるものは僅かに3両を残すのみである。

部分保存

  • C59 162(煙室戸と動輪のみ保存) - 広島県安芸郡府中町 公民館敷地内

保存されたが後に解体された車両

郵便切手

1942年10月14日、鉄道開業70周年記念に逓信省が発行した5銭記念切手には本形式(C59 28)が描かれている。国鉄の制式蒸気機関車が切手に描かれたのは、これが最初であった。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

テンプレート:Sister

テンプレート:国鉄の制式蒸気機関車
  1. 当時、南アフリカ国鉄の技師長(Chief Mechanical Engineer:CME)であったA.G.ワトソンによって計画され、1935年にドイツのヘンシェル社で6両が製作された。
  2. KC51B形。
  3. 特甲線規格で規定される許容軸重16.0tに動軸のみ+5%を加算した値。なお、甲線以上で用いられていた橋梁の設計荷重はKS18あるいはクーパー氏E40(最大軸重40,000ポンド=18.14t)、つまり最大軸重18tを許容していたが、東海道・山陽本線であっても路盤が脆弱な区間が少なくなく、保線員が人海戦術でツルハシ等によりバラストの更換を実施していた保線状況をも含めて考慮すると、両線の軸重16t以上への規格引き上げは困難であった。
  4. 鏡板は同じ型を用いて製造された。
  5. 16.0kg/cm²への引き上げが実施された。なお、この圧力引き上げはC57・C58形で実施済みで、C58形では18kg/cm²での試験も実施されていた。
  6. 重心位置が後方に偏るのを防止し、かつ必要な蒸発能力を確保する目的で鉄道省制式大形蒸気機関車の標準値と比較して500mm長い、6,000mmの煙管長が設定されている。しかし標準的な構造の機関車の試験の結果として、蒸発量は火室と煙管で半々に過ぎないことが確かめられており、一定以上、具体的には5000mm以上の煙管長を持たせても蒸発量増加は誤差程度に過ぎず、重心の問題が無ければこれ以上の長さを取るべきではない。つまり性能向上の観点からは"従台車側で対策を採った上で重心の後方移動を受忍してでも短縮"するか、"製造時の工数の増大を受忍してでも燃焼室を設けて、燃焼効率の改善と重心の前方への保持を両立"するべきものを、そちらの対策を等閑に付し、かつ煤が詰まりやすくなったりより大きな通風力を必要としたりといった弊害を無視して長く取ったわけである。無論、これは本機のボイラー性能上の欠陥と直結した。なお、火床面積は3.27m²でD51形と同一で、火室部分の設計もほぼ共通である。
  7. C55・C57形に採用されたLT217の改良型に当たり、後にC61・C62形にも採用された。
  8. C57形やD51形に使われたLT154系をC59形の条件に合わせて設計を修正したもの。
  9. ただし後述の79・80号機に限っては、燃焼室(火室容積を増積し、燃焼効率を上げるため)+シュミット式E形過熱装置を導入した関係で、例外的に第3缶胴を2分割した4缶胴構成とされ、第四缶胴は板の厚みの分だけ原型よりさらに太くなっている。
  10. このボイラーは缶中心高はC53形と同じ2,530mmに設定されており、直径が増大している分だけ重心が上がっているが、それでも極力重心を下げる努力が払われていたことが見て取れる。
  11. ただしシリンダ面積の縮小比率はボイラー圧力の引き上げ率よりも小さく、差し引きしたトータルの出力はC53形並みの値が得られるものであった。
  12. 行程や動輪径が同一であること、それに実用最高速度が変化していないことなどからも明らかなとおり、弁装置そのものも含め足回りは基本となったC51形の設計から全く進歩がない。
  13. ただでさえ長煙管で通風抵抗が大きくなっているにもかかわらず、排気抵抗の増大(=気筒効率の低下)と通風力のさらなる低下を招く排気膨張室を設置してあるため、母胎となったD51形と比べ缶効率が約1割悪化した。戦後型はさらに排気膨張室が拡大され、実運用上での問題は深刻化、長距離運用に不安をきたしたため、排気膨張室の縮小工事を受けた個体も存在した。このように、排気膨張室は本機にとって全く不要の装備と言ってさしつかえない運用実態を示した。
  14. 一般にレシプロ機関の往復運動部品は、その質量の増大が振動の増大と直結する。にもかかわらず、そして通常の機関車よりも高速での走行時間が長い運用への充当を前提に設計されたにもかかわらず、本形式のピストンや弁装置はその構造・材質共に重量軽減に対する充分な配慮がなされていない。このため、国鉄制式機関車では一大画期となったD50形の傘型ピストン弁(アメリカでは一般的)や弁装置へのニッケルクロム鋼による軽量部材の採用(111号機まで)などと比較すると、振動面では退歩著しい。国鉄制式蒸気機関車の設計においては、以後も振動問題とその対策が省みられることは無かった。
  15. 1 - 100号機用は平底形の車体を備える10-25形としたが、初期製造分はこの頃から採用が始まった代用設計の影響で台車が板台枠・固定枕梁式になった。だがこれは就役後間もなく台車に亀裂が入る等の欠陥が認められたため、1942年度製造分の途中から枕ばね付鋳鋼製台車を備える10-25A形に変更され、さらに戦後型では本体を船底形に変更し、台車の軸受をコロ軸受化した10-25B形となった。
  16. 定置試験での測定結果によれば、缶効率は同一条件下でのC53形や、本形式のボイラ設計の基本となったD51形よりも低く、通風力の不足が指摘されている。にもかかわらず、長煙管について外部に対し「よく炙られて熱効率が高い」等と虚偽の宣伝を行う関係者もあった。
  17. 本形式のボイラーは使用圧力を定格の16気圧から18気圧に将来昇圧することを念頭に置いて、缶胴部の板厚を16mmから19mmへ増厚して設計されたことも関連して、D51形のものと比して重量が増大していた。
  18. 本形式の次に新規設計されたD52形で燃焼室が設けられたのは、戦時体制下で低品質炭の使用を強いられ、かつ牽引定数の引き上げが求められ、製作時の少々の工数の増大を甘受してでも燃焼効率を改善する必要があったためであるが、それと共に重心が後ろに偏るのを抑止することも重要な目的であった。燃焼室はC51における試験で3%の燃焼効率の改善と煙管後端の保守の容易さから「相当経済的」と評価されており、その採用に伴うイニシャルコストの増大は、採用によって得られるランニングコストの抑制で充分回収可能であった。なお、戦後型C59では全車輪の軸重が軽くなったが、従輪は0.5%ほど軽くなっただけであった。燃焼室の長さが500mmと短かったため。(D52・C62で1000mm)
  19. 列車引き出し時には重心の後方への移動が一時的に生じるため、さらに加重されることになる。そのため、タイヤの割損は発車時に発生するケースが大半を占めた。この問題については、欧州例えばドイツなどではバーデン官有鉄道IId形(1902年製)やプロイセン官有鉄道S3/5形(1904年製)などの従輪付き高速機の黎明期から、従輪を先輪と比較してより径が大きく丈夫な車輪とする、という対策が採られていたが、本形式では戦後形も含めて通常の車輪(直径860mm)が墨守された。設計当時、電車用で910mm径車輪が標準部品として存在した状況で、これを採用しなかった経緯は定かではない。なお、C51形やC57形などの一般的なパシフィック機の従軸軸重は11t前後である。
  20. 工員の水準低下もあって、圧延時にスラッグが入っていた。このため高温となる天井板が圧延層ごとに熱膨張で徐々に剥がれ、パイの生地のように複数枚に分かれてしまったものであった。
  21. 『世界の鉄道’68 特集●蒸機C59の一生』 朝日新聞社 1968年 pp.145-150 での北畠顕正(C59の直前はキハ4100040000形内燃動車の設計主任を務め、本形式の初代主任設計者となるも、すぐに交替して電機の設計に移る)の証言による。なお、1933年にはC51形での現車試験で燃焼室付加が熱効率引き上げに大きな効果をもたらすことと、煙管の火室側が火床から遠ざけられ痛みが減り、保守上も好都合であることが確認され、保守方からの燃焼室採用の要望が出ていたほどであった。
  22. なお、燃焼室の量産型蒸気機関車への採用は低質炭の使用を余儀なくされた戦時設計の貨物機であるD52形で、重心位置が後部に寄り過ぎるのを防ぐのも兼ねて、ようやく実現している。
  23. この長煙管は本形式の設計当時、ドイツ帝国鉄道の技師長であったリヒャルト・ワグナーが06形設計時に採用するなどしており、当時のドイツでの流行に迎合した一面があったことは否定できない。ドイツの06形も長煙管が原因で失敗に終わっている。もっとも、ワグナー自身は煙管内径/煙管長=1/400を推奨しているにもかかわらず、本機では大煙管で1/555と煙管が非常に細長く、設計陣はドイツに倣ったつもりであっても、実際には直径との関係を考慮せずに煙管の長さだけを考え無しに取り入れたに過ぎない。
  24. ただし実際に測定されたことは無い。
  25. これにより本形式の宿痾であった従台車の問題が解消された。
  26. 例外として1964年に高松機関区に111号機が配置されたが、これは廃車前提の機関区のボイラー代用としての扱い(1964年8月31日付で廃車)であり、本線運用にはついていない。
  27. 当時はD52形が瀬野機関区に配置され、同区間での補機として運用されていた。
  28. 圧縮空気で動く小型シリンダにより、自動連結器の解放テコを運転台から遠隔動作させる。
  29. これは同時期に糸崎機関区に配置されていたC62形の一部に常磐線電化で平機関区から転属してきた軽軸重型が含まれ、区分無く運用されていたことに一因がある。
  30. 川崎車輌は南満州鉄道向け車両などの製造の関係で、その特許実施権を取得していた。
  31. 当然ながら、これら79・80号機での燃焼室の成功は、戦後型での燃焼室正式採用に大きな影響を与えている。