伊江島補助飛行場
伊江島補助飛行場(いえじまほじょひこうじょう Ie Jima Auxiliary Airfield)は、沖縄県国頭郡伊江村にあるアメリカ海兵隊の飛行場・演習場。
伊江島北西部の約8.02km²を占める。平行して伊江島空港がある。滑走路をはじめヘリパッド、ハリアーパッドを擁し、村面積のおよそ35.3%の区域面積をもつ。しかし区域内の一部の道路の通行は米軍の活動を妨げないことを条件に認められているほか、同区域内に300戸近くの住宅が存在し、実際に生活を営んでいるという特殊な状況下にある。
目次
基地概要
主な数値は内閣府沖縄総合事務局、及び沖縄県基地対策課ウェブサイトによる。
- 市町村別面積比率:伊江村 100%(所在面積であり、村の所有面積ではない)
- 管理部隊:在沖米海兵隊基地司令部(管理番号FAC6005)
- 面積:801.5ha
- 内訳:国有地145.3ha、県有地6.4ha、市町村有地36.8ha、民有地613.0ha)
- 地主数:1231人
- 年間賃借料:13億7500万円
伊江島補助飛行場が占める土地のうち、上記のようにおよそ3/4は私有地である。このため賃借料が地主に支払われている。
使用部隊と任務
常駐機は無く全て飛来機である。
- 陸軍、空軍、海軍、海兵隊
- 模擬空対地射爆撃訓練、パラシュート降下訓練、重量物投下訓練、空挺空輪訓練、防空訓練、垂直離着陸訓練。
この他、第7艦隊及び在沖海兵隊を主力部隊とした「バリアント・アッシャー」と命名された上陸演習においてはキャンプ・ハンセンなどと連動して上陸演習、空挺訓練が実施されてきた。
また、本島周辺において年1回、4週間程度の日程で定期総合演習「ビーチ・クレスト」が実施されている。本訓練の際には伊江島上空にて空中戦闘訓練が実施され、地上では航空機を無線誘導する近接支援訓練が実施される。
地理
- 沖縄島北部の本部半島から北西約9kmの位置にあり、施設の北西部にハリアーパッド、西側に射爆撃場、中央には飛行場がある。島の中央付近には標高172mの城山(通称:伊江島タッチュー)があり、島が一望できる。島の北東部にはテッポウユリを植栽したリリーフィールド公園がある。
沿革
- 年月日不明:旧日本軍に飛行場建設用地として接収。(1942年~44年にかけて南方作戦の中継基地として建設した[1])
- 1947年(昭和22年)3月11日:一部が解放される。久志村と慶良間島の難民収容所から住民が帰還し居住開始。
- 1953年(昭和28年)3月11日:米軍が真謝、西崎両区の土地を射爆撃場建設のため農地の接収通告をし、4戸が立ち退き。
- 1954年(昭和29年)6月:米軍による射爆撃場建設工事着手。
- 1954年(昭和29年)8月:射爆訓練場の拡張のための地上標的を設置するため、更に農地の明け渡しを通告。真謝区78戸、西崎区74戸の計152戸が対象。住民の陳情、反対闘争により15戸に縮小。
- 1955年(昭和30年)3月:武装した憲兵に護衛された工兵部隊が工事着手。
- 1955年(昭和30年):キジャカ部落に通信施設を建設するため農家を接収。
- 1960年(昭和35年):キジャカ部落に通信施設を建設するため農家を接収。1955年と合わせ30戸が立ち退き。
- 1965年(昭和40年)4月15日:一部が返還される(約1.5ha)
- 1967年(昭和42年)5月:住民により「伊江島土地を守る会」が結成される。
- 1970年(昭和45年)6月30日:一部が返還される(約0.5ha)。住民側は反発を強め団結道場を建設。
- 1972年(昭和47年)5月15日:沖縄の復帰に伴い日本国より施設・区域が提供される形になる。
- 1976年(昭和51年)7月8日:第16回日米安全保障協議委員会にて移設条件付全部返還が合意される。
- 1977年(昭和52年)3月31日:0.6haが返還される。
- 1982年(昭和57年)5月15日:公用地暫定使用法の期間満了に伴い、未契約地4.4haが返還される。
- 1985年(昭和60年)4月1日:訓練区域の一部(第2区域)が返還される。
- 1987年(昭和62年)5月14日:約0.2haが返還される。
- 1989年(平成元年)10月:ハリアーパッド完成。
- 1996年(平成8年)12月2日:SACOで読谷補助飛行場で行われていたパラシュート降下訓練の移転が合意。「伊江島訓練場跡地利用計画基本構想」の策定に着手。
- 1998年(平成10年)3月26日:通信施設として、建物100平方メートルを追加提供する。
- 2003年(平成15年)8月26日:工場等として、建物800平方メートルと工作物(門等)を追加提供する。
- 2004年(平成16年)11月4日:門等を追加提供する。
典型的な「銃剣とブルドーザーによる接収」の経緯があり、那覇防衛施設局も『調和 基地と住民』にてそれを認めている。そのため、1990年代に入っても契約拒否地主を数多く生み出すこととなった。一方で、1996年の跡地利用構想の策定範囲は訓練場として使用されている327haにとどまり、その他の敷地の大半は黙認耕作に使用されている。この土地利用の扱いについても課題があることを内閣府沖縄総合事務局などが指摘している。
周辺対策
本飛行場に関係する周辺対策事業は他の自衛隊・在日米軍施設同様「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」を根拠法とし(以下本節で同法と呼ぶ)、下記が実施されてきた[2]。
伊江島で実施されている周辺対策事業は下記のように区分される。
- 障害防止工事の助成
- 民生安定施設の助成
- 調整交付金の交付
障害防止工事
障害防止対策事業(同法3条に基づく)の内一般障害防止については、水問題への対処が挙げられる。基地建設が実施される以前、伊江島には40余の溜池が存在し、島民の水確保の手段となっていた。しかし、本飛行場の拡張などに伴い溜池は多くが埋め立てられ、更に土地の締め固めが実施されたことで雨水が地下に浸透しなくなった。上水道は本島から送水することで対処したものの、旱魃時には農業用水が不足する問題が発生した。この対策として、道路側溝を流れる雨水を溜池に導き、溜池自体も新設が行われ、1994年6月時点で35箇所、40万1000トンの貯水力に拡張された。1973年度から1995年度まで実施した助成額の総計は約30億円となっている。
騒音防止工事
学校等の公共施設の騒音防止対策事業としては、航空機騒音の防止・軽減対策として1974年度から実施され、小学校2校、中学校1校、保育所1箇所に防音工事を実施した。これらの防音工事に伴って整備した空調設備の維持にも補助金を交付している。これらの総計は1995年頃までに約11億円となっている。
民生安定施設の助成
民生安定施設の助成は同法8条に基づく。一般助成事業として、児童公園、近隣公園、地区公園、体育館、水道、無線放送施設、農業用施設(野菜類の出荷施設)、漁業用施設(漁港)等について、1975年度より助成を開始し、1995年度時点で総計は約27億円となっている。
防音助成については学習等供用施設4施設、庁舎等については1975年度から1995年度までの累計で約2億円の補助が実施されている。
特定防衛施設周辺整備調整交付金
更に、同法9条に基づき、特定防衛施設周辺整備調整交付金を伊江村に対して交付している。用途としては道路、医療保健センター、聖苑(火葬場、斎場)、一般廃棄物最終処分場、学校及び公共施設などの整備に充当されている。総計額は1975年度から1995年度までで約36億円となっている。
その他
日米地位協定第2条第4項(a)に基づき、補助飛行場内で農業用灌漑施設、水道事業貯水施設など、10件、約6haの一時使用を許可している(黙認耕作とは別)。
また、離着陸時の騒音緩和のため1982年度より補助飛行場内でモクマオウ等の植栽を実施し1995年時点では9ha余りの面積となっている。
脚注
- ↑ 那覇防衛施設局「伊江島補助飛行場 -その運用と周辺対策-」『調和 基地と住民』63号 1997年3月15日
- ↑ 周辺対策の主な出典は
那覇防衛施設局「伊江島補助飛行場 -その運用と周辺対策-」『調和 基地と住民』63号 1997年3月15日
外部リンク
- 伊江島補助飛行場 「跡地カルテ」『内閣府沖縄総合事務局』HP
- テンプレート:PDFlink 「第8章 基地の概要 第1節 米軍の施設別状況」内『沖縄の米軍基地 平成20年3月』 P176-179 沖縄県基地対策課HP
- FAC 6005 伊江島補助飛行場 沖縄県基地対策課HP