崇伝
崇伝(すうでん、永禄12年(1569年) - 寛永10年1月20日(1633年2月28日))は、安土桃山時代から江戸時代の臨済宗の僧。以心崇伝(いしん すうでん)、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれる。外交僧として江戸幕府の政策に関与し、黒衣の宰相の異名を取った。
生涯
永禄12年(1569年)、一色氏一門・一色秀勝の子として京都に生まれる。父の没後に南禅寺で玄圃霊三に師事し、南禅寺塔頭の金地院の靖叔徳林に嗣法、更に醍醐寺三宝院で学ぶ。福厳寺や禅興寺、建長寺などの住職となり、慶長10年(1605年)には臨済宗五山派の最高位・南禅寺の270世住職となり[1]、この時に後陽成天皇から紫衣を下賜されている。
慶長13年(1608年)、徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり外交関係の書記を務め、やがて幕政にも参加するようになる。閑室元佶や板倉勝重と共に寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わる(以上の3法令を起草したと言われる)。
慶長19年(1614年)、大坂の陣の発端にもなった方広寺の鐘銘事件にも関与し、「国家安康」「君臣豊楽」で家康を呪い豊臣家の繁栄を願う謀略が隠されていると難癖を付けたのは崇伝とされる説が流布しているが[1]、近年では問題化の関与には否定的な研究もある[2][3]。しかし取り調べには参加しており、釈明に訪れた豊臣家の家臣・片桐且元に対して鐘銘問題ではなく浪人召集の真意を詰問した[1]。
元和2年(1616年)に家康が死去すると神号を巡って天海と争い、崇伝は明神として祀ることを主張するが、最終的には天海の主張する権現に決定する。
元和4年(1618年)には江戸に金地院を建立した。翌・元和5年(1619年)には僧録となる。以後、金地院僧録は崇伝の法系に属する僧で占められた。南禅寺(金地院)と江戸の金地院を往還しながら政務を執った。また南禅寺や建長寺の再建復興にも尽力し、古書の収集や刊行などの文芸事業も行う。
寛永4年(1627年)、紫衣事件に対する幕府の措置に対して反対意見書を提出した沢庵宗彭、玉室宗珀、江月宗玩の3人を遠島に処すつもりであったが、天海や柳生宗矩らのとりなしによって、沢庵は出羽上山に、玉室は陸奥棚倉へ配流、江月はお咎めなしとなった。
寛永10年(1633年)1月20日に江戸の金地院で死去[4]。享年65[4]。
人物
著作に日記の『本光国師日記』『本光国師語録』、外交関係の記録に『異国日記』がある。優れた学僧であったが、その権勢の大きさと、方広寺鐘銘事件に代表される強引とも思える政治手法により、世人から「黒衣の宰相」「大欲山気根院僭上寺悪国師」と称され、沢庵には「天魔外道」と評されるほどだった[4]。ただし家康没後は後ろ盾を失い、天海にその地位を奪われたとの評価もある。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 泉秀樹『戦国なるほど人物事典』(PHP研究所、2003年)
- 圭室文雄『日本の名僧15 政界の導者 天海・崇伝』(吉川弘文館、2004年)
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- 史料