京都府道31号西陣杉坂線
京都府道31号西陣杉坂線(きょうとふどう31ごう にしじんすぎさかせん)は、京都市上京区千本今出川交差点を起点に、北区中川中山(杉阪口)に至る主要地方道である。
概要
市街では千本通、北区鷹峯木ノ畑町(北山通・今宮通との交差点)以北の区間は鷹峯街道(たかがみねかいどう)と呼ばれる[1]。京都市街北部から、丹波国・旧京北町方面への最短ルートであり、国道162号の杉阪口以南の迂回路としての役割も担っている。
千本通区間(北区鷹峯木ノ畑町以南)は片側2車線の幹線道路である。以北は車両通行帯のない道路となるが、北区鷹峯北鷹峯町以南は道幅が比較的広いため、離合は容易である。しかし、この先の長坂越と呼ばれる区間、特に大宮釈迦谷地内の山間部分は、連続した急坂、急カーブ、離合困難な狭隘道路が続く。そのため、旧京北町との合併を機に、バイパス道路の建設を主とした道路整備が進められている[2][3]。
民家の点在する杉阪集落周辺では、並行する杉坂川が蛇行していることから、これをまたぐ数多くの小橋が架かっている。北尾3号橋以西は整備された片側1車線道路となり、清滝川に架かる中山橋を経て杉坂口で国道162号(周山街道)に合流する。
路線名の「西陣杉坂線」・河川名の「杉坂川」と、地名の「杉阪」では文字が異なる。
歴史
1895年(明治28年)に、現在の周山街道が開かれるまで、鷹峯千束、長坂越を経て杉阪口を通る古道(長坂道)が、周山や若狭に至る主要ルートであった[4]。鯖街道の一つであり、かつては若狭湾で取れた鯖が天秤棒に担がれ、夜を徹して道を駆け、京都へ届けられていた[5]。また、『太平記』に「道明長坂を経て越前へ落ち行く」と記され、1336年(延元3年)に新田義貞らの軍勢が京へ攻め入ろうとしたとき「その勢三百余騎、白昼に京中を打通って、長坂に打ち上る」とも記されるなど、歴史の舞台にも登場している[6]。杉阪地区では、往来する人々から関所税を徴収する「率分関(そつぶんせき)」が、道路上に設置されていたという[7]。
長坂越については、かねてから古道の勾配が極めて急であった。牛馬車が通れるようにするため、1890年(明治23年)に現在の道路の基盤が造られた。しかし、曲がりくねった坂道であったため、肝心の牛馬車の往来にはあまり活用されなかったという[8]。
路線状況
通過する峠
地理
鷹峯街道沿いの、御土居と交差する付近(北区鷹峯旧土井町、上ノ町、藤林町周辺)を、京の七口の一つ長坂口と呼んでいた。
接続道路
- 今出川通(京都府道101号銀閣寺宇多野線)
- 北大路通(京都市道181号京都環状線)
- 今宮通
- 氷室道
- 京都府道107号雲ケ畑下杉坂線
- 国道162号(周山街道)
沿線
- 西陣郵便局
- 京都市立嘉楽中学校
- 千本釈迦堂(大報恩寺)
- 京都市立乾隆中学校
- 千本閻魔堂
- 京都市立楽只小学校
- 京都府立盲学校
- 船岡山
- 佛教大学
- 京都府立盲学校
- 御土居
- 源光庵
- 京都市立鷹峯小学校
- 光悦寺
- 道風神社
脚注
- ↑ 千本通は、鷹峯街道の鷹峯交差点以南区間を指す
- ↑ 京都市情報館 主要府道 西陣杉坂線
- ↑ 京都建設タイムズ 西陣杉坂線 西中尾工区/釈迦谷工区 バイパス整備を計画 道路予備設計を業務委託
- ↑ 従って、その時代によって「周山街道」「丹波街道」などとも称された
- ↑ 京都市情報館 北区役所 リレー学区紹介-鷹峯学区
- ↑ 貴重な自然と文化を育んだ京都北山
- ↑ 京都市情報館 北区役所 リレー学区紹介-中川学区
- ↑ 写真紀行・旅おりおり 長坂口