仲恭天皇
テンプレート:基礎情報 天皇 仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。
系譜
順徳天皇の第一皇子。母は、九條良経の娘、東一条院・藤原立子。
- 妃:右京大夫局 - 性慶の娘
- 第一皇女:義子内親王〔和徳門院〕(1234-1289)
系図
略歴
順徳天皇の承久の乱の準備参加に伴い、承久3年(1221年)に譲位され4歳で践祚。同年、祖父の後鳥羽上皇が承久の乱を起こしたが、北条泰時率いる幕府軍に敗北。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に、土御門上皇も自ら望んで土佐配流された。これによって自らも皇位を廃立され、高倉天皇の第二皇子である守貞親王(後高倉院)の皇子・茂仁王(後堀河天皇)が即位した。仲恭天皇は幼児で将軍九條頼経の従兄弟であることからその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府を非難して仲恭復位を願う願文を納めている[1]。まもなく母親の実家である摂政・九條道家(天皇の叔父、頼経の父)の邸宅に引き渡され、天福2年(1234年)17歳にて崩御。
諡号・追号・異名
承久の乱の後わずか78日間で廃され、即位も認められていなかったため諡号・追号がつけられず、九条廃帝(くじょうはいてい)、半帝、後廃帝と呼ばれていた。ちなみに、歴代の天皇の中で、在位期間が最短な天皇である。
明治3年(1870年)に天皇として認められ、仲恭天皇と追号された。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市伏見区深草本寺山町にある九條陵(九条陵、くじょうのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。
上記とは別に、京都府京都市東山区本町にある宮内庁の東山本町陵墓参考地(ひがしやまほんまちりょうぼさんこうち)では、仲恭天皇が被葬候補者に想定されている[2]。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また若宮八幡宮社(京都府京都市東山区)では、左相殿に祀られる(東山本町陵墓参考地の場所にかつて存在した塚本社からの移祀)。