高倉天皇
高倉天皇(たかくらてんのう、応保元年9月3日(1161年9月23日) - 治承5年1月14日(1181年2月6日))は、平安時代末期の第80代天皇(在位:仁安3年2月19日(1168年4月9日) - 治承4年2月21日(1180年3月18日))。諱は憲仁(のりひと)という。
系譜
後白河天皇の第7皇子。母・平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹。中宮は清盛と時子の娘(つまり従姉に当たる)平徳子(後の建礼門院)。安徳天皇、後鳥羽天皇らの父。
系図
略歴
政界の実力者・平清盛の義理の甥にあたる事に加えて、当時政治方針を巡って対立した二条天皇によって院政停止状態に置かれていた後白河院の不満から、二条天皇の死後に立てられた六条天皇(二条天皇の子、高倉天皇からみて甥)をわずか3歳で退位させ、天皇として擁立された。政務は父・後白河院が院政を敷き、平清盛の孫にあたる安徳天皇に皇位を譲った。治承三年の政変によって後白河院が事実上の幽閉状態に置かれると、自ら院政を開始するが間もなく病に倒れた。後白河院と平氏の圧力に悩まされ続けた天皇とされてきたが、近年の研究では平氏一門と組んで政治を推し進める意図を持っていたとの説も出ている。色白で美しい容姿であり、その人柄は多くの廷臣から慕われていたという。
后妃・皇子女
- 中宮:平徳子(建礼門院)(1155-1213) - 平清盛女
- 第一皇子:言仁親王(安徳天皇)(1178-1185)
- 典侍:藤原殖子(七条院)(1157-1228)- 坊門信隆女
- 准三后:近衛通子(1163-?) - 近衛基実女、言仁親王准母
- 典侍:堀河豊子(按察典侍) - 堀河頼定女
- 掌侍:平範子(少将内侍) - 平義輔女
- 第三皇子:惟明親王(1179-1221)
- 宮人:藤原公子?(帥局)(?-1179) - 藤原公重女、高倉天皇乳母
- 第一皇女:功子内親王(1176-?) - 伊勢斎宮
- 宮人:藤原氏(小督局) - 藤原成範女
在位中の元号
- 仁安 (1166年8月27日) - 1169年4月8日
- 嘉応 1169年4月8日 - 1171年4月21日
- 承安 1171年4月21日 - 1175年7月28日
- 安元 1175年7月28日 - 1177年8月4日
- 治承 1177年8月4日 - (1181年7月14日)
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)に治定されている。公式形式は方丘。清閑寺旧境内の山腹に所在する。
治承5年(1181年)1月14日の天皇崩御の夜、遺詔によって清閑寺法華堂に奉葬された。のちに法華堂は消滅したが、祭祀は継続されており、幕末には聖護院宮の管理下にあった。明治29年(1896年)、六条天皇清閑寺陵と区別して現陵号を設定。陵域内には、法華堂の基壇と見られる墳丘と、小督局の墓と伝える宝篋印塔がある。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。