丸岡修
丸岡 修(まるおか おさむ、1950年10月20日 - 2011年5月29日)は日本の新左翼活動家。日本赤軍の元メンバー。
経歴
大阪府生まれ。大阪府立清水谷高等学校を卒業後、1970年から大阪浪共闘やベ平連で市民活動家として活動した。その後、1972年4月に日本を出国、テルアビブ空港乱射事件の犯人らとアラブ・ゲリラの訓練所で軍事訓練を受けた後に所在不明となっていた。同年5月のテルアビブ空港乱射事件には参加しなかったが、殺人共犯で指名手配となった。日本赤軍メンバーとして1973年のドバイ日航機ハイジャック事件、1977年のダッカ日航機ハイジャック事件に主導的立場で関与したとして国際指名手配を受けた。
1987年11月21日に東京で警察に偽造旅券を所持していたため逮捕された。指紋の照合で本人であることが確認される。この逮捕によって、丸岡が翌年に迫ったソウルオリンピックを妨害工作するためにソウル行きを計画していたことが明らかになる。
ドバイ・ダッカの両ハイジャック事件に対するハイジャック防止法違反と、偽造旅券で帰国したとする旅券法違反の罪に問われ、1993年12月、無期懲役の判決を受けた。
1997年4月に控訴を、2000年3月に上告をそれぞれ棄却されて無期懲役が確定。当初は宮城刑務所で服役した。
『読売新聞』2002年1月27日付の記事「若王子さん事件 日本赤軍の影」において「三井物産マニラ支店長誘拐事件の際に犯人側に渡された身代金と丸岡の所持していた紙幣の番号が一致した」などと報じられた。丸岡は名誉毀損で民事訴訟に起こし、2007年1月19日に東京地裁は三代川三千代裁判長は証拠不十分として読売新聞社に105万円の賠償支払いを命じた。2007年6月28日、控訴審の東京高裁で吉戒修一裁判長は一審判決を破棄し、新聞記事を真実と認め、丸岡の名誉毀損による請求を退けた。
クアラルンプール事件で実行犯として関与したと疑われていたが、同事件では起訴されていない。
2004年には拡張型心筋症と診断され車椅子生活を送っていた。投薬治療を受けていたが、刑務所内には医師が常駐しておらず十分な治療がうけられなかったという。発作で失神することもあり、丸岡は4回も刑の執行停止を申し立てたがいずれも却下されていた[1]。
2010年6月30日、刑の執行停止が認められず精神的苦痛を受けたとして、国を相手取り約1100万円の損害賠償と刑の執行停止をもとめ東京地裁に提訴[1]。
2011年5月29日、収監先の八王子医療刑務所にて心臓病により死去[2]。60歳没。
その他
日本赤軍メンバーの岡本公三は、テルアビブ空港乱射事件は当初の計画では丸岡を含めた4人でおこなう予定であったが、丸岡が別行動をとったために3人で襲撃したと供述している。
著書
- 『公安警察ナンボのもんじゃ』 新泉社、1990年10月。ISBN 4787790196
- 『丸岡修自述―元・日本赤軍軍事指揮官告白録』 風塵社、2013年5月。 ISBN 9784776300564
丸岡を描いた作品
(その他日本赤軍に関する著書多数に於いて丸岡に関する記述がある)
脚注
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite news
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- ↑ http://g2.kodansha.co.jp/10955/11396/11397/11398.html