両國勇治郎
両國 勇治郎(りょうごく ゆうじろう、1892年3月18日 - 1960年8月10日)は、大相撲の力士。出羽海部屋所属。最高位は関脇。秋田県大仙市出身。本名は西村(後に伊藤)勇治郎。現役時代の体格は173cm、90kg。得意手は左四つ、櫓投げ、小手投げ、内掛け、掛け投げ。幕内で勇治郎の四股名を名乗ったのは1場所だけであり、その後はずっと梶之助と名乗った。
来歴
1914年5月場所に新入幕を果たすと、その場所で9勝1休の好成績で幕内最高優勝を果たした。1休はこの日の相手寒玉子の休場(当時は片方休めば相手も休み扱い)によるものであり、現在なら不戦勝である。ただし、この休場は、優勝を争っていた横綱太刀山が、出羽海部屋の力士が休場したために休み扱いになったので、それとバランスをとるために、寒玉子を休場させたものである。当時はこういう状況を「土つかず」と表現した。
なお新入幕力士の無敗は両國と1917年5月場所の大潮、1945年11月場所の千代ノ山(これは本当の全勝だった)の3人だけである。
1915年1月場所より四股名の下を梶之助と改める。この場所は7勝2敗1分の成績を挙げて、で翌場所は関脇に昇進、その後も平幕上位から三役で活躍した。優勝旗手も2回務めた。1924年1月場所限りで引退。美男でも知られ、作家の田村俊子も彼にほれ込み「両國という角力恋して春残し」「両國を思えばうつらうつらかな」という句を詠んだ。
引退後は年寄武隈を襲名し、横綱に昇進した武藏山をスカウトしたが、出羽海と確執が生じ武隈部屋を興し立浪一門に移籍した。そのため、力士たちは出羽海部屋の力士と対戦するという、系統別総当たり制の時代には珍しい状況になった。十両に昇進した郷錦は、プロ野球東京讀賣巨人軍に在籍していた原田治明の父親である。しかし、幕内力士を育てることはできなかった。
主な成績
- 通算成績:105勝74敗3分3預34休 勝率.587
- 幕内成績:92勝72敗2分1預34休 勝率.561
- 現役在位:24場所
- 幕内在位:20場所
- 三役在位:5場所(関脇3場所、小結2場所)
- 各段優勝
- 幕内最高優勝:1回 (1914年5月場所)
- 十両優勝:1回(1914年1月場所)
- 優勝旗手:2回