上野彦馬
テンプレート:Infobox 人物 上野 彦馬(うえの ひこま、天保9年8月27日(1838年10月15日) - 明治37年(1904年)5月22日)は幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。
生涯
天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、咸宜園を離れた後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。
維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、同年に開催された第1回内国勧業博覧会では鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。
一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク、上海、香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、富重利平や田本研造ら多くの門人を輩出した。明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。
ギャラリー
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上野彦馬の像(長崎市)
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彦馬の代表的な作品といわれていた坂本龍馬肖像(現在の研究では、彦馬の弟子、井上俊三の撮影であることが通説となっている)
参考文献
- 鈴木八郎、小澤健志、八幡政男、上野一郎監修『写真の開祖 上野彦馬』 産業能率短期大学出版部,1975年
- 八幡政男『幕末のプロカメラマン 上野彦馬』 長崎書房,1976年
- 八幡政男『写真術師 上野彦馬』 マルジュ社,1986年
- 八幡政男『評伝上野彦馬 日本最初のプロカメラマン』 武蔵野書房,1993年
- 安田克廣編『幕末維新-写真が語る-』 明石書店,1997年
- 長野重一、飯沢耕太郎、木下直之編『上野彦馬と幕末の写真家たち』 岩波書店,1997年
- 馬場章編『上野彦馬歴史写真集成』 渡辺出版,2006年
- 本馬貞夫「上野彦馬-化学者でもあった写真師」(Wolfgang Michel、鳥井裕美子、川嶌眞人編『九州の蘭学-越境と交流-』所収) 思文閣出版,2009年
- 小澤健志、上野一郎監修『レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界』 山川出版社,2012年
関連項目
- 日本写真史
- 三谷幸喜 - 上野をモデルにした写真家が主人公の演劇『彦馬がゆく』を上演した。
- グイド・フルベッキ
- 上野陽一 - 「能率の父」と呼ばれる経営学者、産業心理学者。彦馬の甥(彦馬の実弟・幸馬の長男)。
- 上野彦馬賞
外部リンク
- 写真の開祖 上野彦馬(産業能率大学)
- 上野彦馬賞(九州産業大学)
- 長崎大学付属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース 上野彦馬
- 早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 「舎密局必携-前篇」
- 『舎密局必携』巻三 附録「撮形術」(上記の付録をひらがな・読み仮名付きにしたもの)
- ダルメイヤー B-3(上野が最初使ったものと同型のレンズ)