上杉斉定
テンプレート:基礎情報 武士 上杉 斉定(うえすぎ なりさだ)は、出羽米沢藩の第11代藩主。上杉勝熙(第8代藩主・上杉重定の長男)の子。第10代藩主・上杉治広の甥で養嗣子。官位は善政を表彰され、養父同様に少将まで進む。諱は初め定祥、後に徳川家斉から偏諱を与えられて斉定。
経歴
実父・勝煕は第8代藩主・重定の長男で、第10代藩主・治広の兄である。寛政6年(1794年)、治広の養嗣子顕孝の死去を受け、代わって養嗣子として指名される。義理の祖父である第9代藩主・治憲(鷹山)の隠居所である米沢城三の丸の餐霞館に引き取られて治憲に養育され、起床をともにした。治憲は養孫の世話と教育を特に気にかけ、夜間の小用の世話も自ら行ったといい、また郊外の農村を共に歩いて教えさとした。寛政11年(1799年)には治憲とともに赤湯温泉に湯冶に出かけている。なお傳役は顕孝の傳役を務めていた莅戸政以が務め、侍読は神保綱忠が務める。
享和2年(1802年)に喜平治と改名する。文化3年(1806年)には斉定の世子教育のため、治憲により江戸幕府儒官の古賀精里(弥助)が招かれる。元服した翌年の文化6年(1809年)4月、治広の娘と結婚し、文化7年(1810年)5月には江戸より帰国し再び治憲と起床して藩主教育を受け、文化9年(1812年)9月7日の治広の隠居により家督を継いだ。
この頃の米沢藩では名君・上杉治憲(鷹山)の治世により藩政と藩財政が再建されていたが、鷹山の死の翌年の文政5年(1823年)蔵元への借財は全て償還され、斉定は藩政基盤を確立させた。また、大石綱豊を執政として藩政を担わせ、先代からの懸案である飯豊山灌漑穴堰も文政元年(1818年)に完成させた。
天保の飢饉が起こったときには、天明の飢饉の鷹山の施策を範に、藩主自ら粥を食し、さらに百姓に対しても米を支給するなどして、一人の餓死者も出さなかったという手腕を見せた。天保2年(1831年)には藩士からの借り上げを中止して、50石以下の下級武士に手当金を与えた。天保10年(1839年)2月2日に死去した。享年52。跡を長男の斉憲が継いだ。
叙任履歴
斉定治世中の主な家臣
以下は文政11年(1828年)の江戸武鑑に見られる主要家臣である。
【家老、奉行、侍頭及び侍組分領家】
- 本庄近江、長尾権四郎、中条筑後、千坂太郎左衛門、色部弥三郎、毛利八百松、竹俣翁助、市川豊後、清野伊勢松、島津喜七郎、平林蔵人、竹俣鍋丸、大石左膳、広居出雲
【中老】
- 莅戸九郎兵衛
【用人】
- 本間舎人、岩井牧太、上松新右衛門、原三左衛門、木滑要人、佐藤官兵衛、高坂武左衛門
【傳役】
- 関竜八
【城使】
- 登坂利兵衛、粕谷伊津紀
脚注