三松正夫

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ファイル:Mimatsu Masao statue1.JPG
昭和新山を望む三松正夫像。下の台座には「麦圃生山」(麦畑、山を生ず)との文字が刻まれている
ファイル:Showashinzan and mimatsu masao statue.jpg
昭和新山と三松正夫像。三松正夫が愛した昭和新山に観測器具を構えるようにして像が建立されている

三松 正夫(みまつ まさお、1888年(明治21年)7月9日 - 1977年(昭和52年)12月8日)は昭和新山の成長を記録したアマチュア火山研究家。郵便局長。

経歴

北海道伊達町(現・伊達市)に生まれる。北海中学を中退後、有珠郡壮瞥町の壮瞥郵便局に勤め、郵便局長になる。

1910年(明治43年)の有珠山噴火により山麓に側火山となる明治新山(四十三山)が誕生する。現地調査に訪れた火山学者・大森房吉の案内役を務め火山学への造詣を深めた。

大正時代には洞爺湖畔に新たな温泉を発見。

1943年(昭和18年)には有珠山麓の麦畑から突如として活動を開始した昭和新山の定点観測を続ける。その手法は地震の回数を皿に置いた豆で記録、台に顎を乗せ視点を固定し、水平に張った糸で日々の形状の変化を計測するという独創的なハンドトレスの手法で作成された。この図はミマツダイヤグラムとして世界でも貴重な火山活動の記録となった。

その後、荒廃から守るために1946年(昭和21年)に私財を投じて土地ごと購入し天然記念物への申請などの保護に努めた。土地ごと買い取りの理由を本人は著書で「硫黄が採取できるということでの採掘を阻止するため」と記したほか、娘婿で「三松正夫記念館」館長三松三朗の著書では「新山への愛着で所有したかったから」とされている。

1948年(昭和23年)に昭和新山の成長過程を記録したスケッチを元に作成した「新山隆起図」がオスロで開かれた万国火山会議において専門家から高く評価されミマツダイヤグラムと名付けられた。

1977年(昭和52年)生涯3度目となる有珠山噴火を目の当たりにしながら89年の生涯を終える。

昭和新山の山麓には1988年(昭和63年)4月に「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)が開館して三松による観測記録「ミマツダイヤグラム」を含む資料類が展示されているほか[1]1993年平成5年)12月に噴火50周年を記念して銅像が建てられた。

著書

脚注

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参考図書

登場作品

  • 『火の山』手塚治虫 1983年講談社 - 壮瞥町にやってきた無頼漢が三松の火山調査の助手として奮闘するフィクション作品。

外部リンク

  • “昭和新山資料一堂に 三松記念館オープン”. 北海道新聞(北海道新聞社).(1988年4月24日)