ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)

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ファイル:RNVittorio Veneto-Battle of Cape Spartivento.jpg
艦歴
発注: CRDA社トリエステ造船所
起工: 1934年10月28日
進水: 1937年7月25日
就役: 1940年4月28日
退役:
その後: スクラップとして廃棄
除籍: 1948年2月1日
性能諸元
排水量: 基準:43,624 トン
満載:45,752 トン
全長: 224.5m
237.8m(水線長)
全幅: 32.9 m
吃水: 10.5 m
機関: ヤーロー重油専焼水管缶8基+ブルッゾー式ギヤード・タービン4基4軸推進
最大
出力:
140,000hp
最大
速力:
31.45ノット (56 km/h)
航続
距離:
16ノット/4,580海里
燃料: 重油:4,000トン(満載)
乗員: 1,830名(旗艦時:1,910名)
兵装: 38.1cm(50口径)3連装砲3基
15.2cm(55口径)3連装速射砲4基
9cm(50口径)単装高角砲12基
37mm(54口径)連装機関砲10基
2cm(65口径)単装機銃20基(機関砲・機銃は時期により増加)
航空兵装: 水上機3機
カタパルト1基

ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) は、イタリア海軍超弩級戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の1番艦である。艦名は第一次世界大戦ヴィットリオ・ヴェネトの戦いに因む。ヴィットリオ・ヴェネトはウンベルト・プリエーゼ造船将軍が設計し、ワシントン海軍軍縮条約の制限を超えた最初の戦艦であった。

概要

本艦はイタリア王国海軍が第二次大戦中に竣工させた最初で最後の超弩級戦艦「ヴィットリオ・ヴェネト級」のネームシップである。基本的な船体設計は第一次大戦時に計画された「フランチェスコ・カラッチョロ級」を踏襲しているが、仮想敵国であるフランス海軍ダンケルク級に対抗すべく、数々の新機軸を投入して全くの別設計となって建造された。

艦形

本艦の船体形状は艦首から第三主砲塔下部まで全く傾斜(シア)のない甲板が続く長船首楼型船体を採用している。艦首甲板上に新設計の「OTO 1934年型 38.1cm(50口径)砲」を三連装砲塔に収め、1番・2番主砲塔を背負い式に2基を配置、その後にプリエーゼ造船士官の考案による直径の異なる円筒を積み重ねたような特徴的な塔型艦橋が立つ。艦橋の構成は上から装甲射撃方位盤室、上下2段に重ねられた装甲7.2m測距儀塔、戦闘艦橋、操舵艦橋の順で、艦橋全体が装甲で覆われているために司令塔は設けられていない。艦橋の後部にはアンテナ線を展開するためのポール・マストが立ち、船体中央部に頂上部にファンネル・キャップを持つ2本煙突が立つ。2番煙突の後部から艦載艇置き場となっており、円筒を積み重ねたような形状の後部艦橋の基部に付いたクレーン1基により運用された。なお、この時期のイタリア海軍は大型のゴムボートを艦載艇の一部として運用しており、これを後檣の基部に立てかけたり、副砲塔の上に置いて甲板スペース節約に努めていた。

3番主砲塔はタービン・シャフトをクリアするために最上甲板の終端部に一段高められて後向きに1基が配置され、そこから甲板一段分下がった後部甲板上に水上機射出用のカタパルト1基と水上機用のクレーン1基が配置された。本艦の副砲の「OTO 1936年型 15.2cm(55口径)速射砲」を新設計の三連装砲塔に収め、艦橋と3番主砲塔の側面部に1基ずつの計4基を配置していた。艦首側副砲塔の後方の舷側甲板上に「Ansaldo and OTO 1939年型 9cm(50口径)高角砲」が断片防御程度の装甲で出来た円筒形の防盾を付けられた単装砲架で片舷6基ずつ計12基を配置していた。この武装配置により艦首方向に最大で38.1cm砲6門、15.2cm砲6門を、舷側方向に最大で38.1cm砲9門、15.2cm砲6門、9cm砲6門を、艦尾方向に最大で38.1cm砲3門、15.2cm砲6門を指向できた。舵は主舵を中央に1枚と副舵を外軸と内軸の間に1枚ずつの計2枚を配置していた。

武装

主砲

ファイル:Italian battleship Roma (1940) forward turrets.jpg
写真は「ローマ」にも搭載された38.1cm主砲塔

本艦の主砲はOTO(Odero-Terni-Orlando )社の新設計の「OTO 1934年型 38.1cm(50口径)砲を採用した。その性能は重量885kgの砲弾を最大仰角35度で44,640mまで届かせることが出来、射程28,000mで舷側装甲380mmを、射程18,000mで舷側装甲510mmを貫通可能であった。砲塔の俯仰能力は仰角35度・俯角5度である、旋回角度は船体首尾線方向を0度として左右120度の旋回角度を持つ。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1.3発である。

副砲・その他備砲

ファイル:Italian battleship Roma (1940) starboard quarter view.jpg
写真は同型艦の「ローマ」。15.2cm三連装砲塔に挟まれるように配置された9cm高角砲がよく判る写真

副砲は前級の「カイオ・デュイリオ級」よりも更に口径がアップしているがこれは従来の口径ではフランスの大型駆逐艦には対抗できても、軽巡洋艦を駆逐するには不十分であるとの判断であるとともに、このくらいの口径でも発射速度がよく軽量な砲が開発できるようになった為である。主砲と同じくOTO社の新設計の「OTO 1936年型 15.2cm(55口径)速射砲」を採用した。なお、この砲は他に軽巡洋艦ルイージ・ディ・サヴォイア・デュカ・デグリ・アブルッツィ級」の主砲にも採用されている。その性能は重量50kgの砲弾を最大仰角45度で25,740mまで届かせることが出来た。砲塔の俯仰能力は仰角45度・俯角5度である、旋回角度は240度の旋回角度を持つ。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。装填角度は仰角20度から俯角5度の間で装填できる自由角装填式で発射速度は毎分4~5発である。

他に対空火器として「Ansaldo and OTO 1939年型 9cm(50口径)高角砲」を採用した。この砲は近代化改装後の「カイオ・ドゥイリオ級」のにも採用されている優秀砲である。その性能は重量10kgの砲弾を仰角45度で13,000mまで、最大仰角75度で最大射高10,800mまで届かせることが出来た。砲架の俯仰能力は仰角75度・俯角5度で、旋回角度は舷側方向を0度として左右120度の旋回角度を持っていた。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分12発である。

近接火器としては「1938年型 3.7cm(54口径)機関砲」を連装砲架で10基装備した。他に「2cm(65口径)機関砲」を連装砲架10基装備した。他に、照明弾や礼砲用にアームストロング社の設計を購入して国産化した「アームストロング 1892年型 12cm(40口径)砲」を採用した。その性能は重量20.4kgの砲弾を仰角20度で9,050mまで届かせることが出来た。砲架の俯仰能力は仰角20度・俯角5度で、旋回角度は360度の旋回角度を持っていた。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に人力を必要とした。発射速度は毎分5~6発である。これを、防盾をつけて単装砲架で舷側中央部に片舷2基ずつ計4基を装備した。

防御

本艦の最大装甲厚は水平甲板が合計207mm、垂直防御が8度傾斜させた合計350mmで今までのイタリア戦艦に比べて防御力は桁違いである。しかし、舷側防御は同時期の新戦艦ではイギリス海軍の「ネルソン級」の356mmに次いで厚い350mmを誇るが、これは完全な一枚板ではなく、硬めの70mm装甲と280mm装甲の間に50mmの木材をクッションとして挟むという、「複合装甲」と呼べる形式を採っている。既存艦のように何故に一枚板にしなかったかと言うと、この時代で300mm以上の厚さの均質な性能を持った装甲板を作るのはイタリアの工業能力では難しかったためである。 考え方としては硬質な70mm装甲で砲弾の被帽を破壊し、木材で弾速を緩め、本命の280mm装甲で砲弾を止めるという 理論であった。また、多くの戦艦が副砲を防御のアキレス腱にしているのに対し、イタリアは副砲の防御を旧世代の主力艦並である280mmもの装甲を与えることで解決しようとした。しかし、主砲弾薬庫と副砲弾薬庫を離すスペースが足らなかったために、後に三番艦「ローマ」がフリッツX2発を被弾した時に2発目が副砲と主砲の間に命中、主甲板装甲を貫通して爆裂し延焼を始めたときに双方の火薬庫が熱を持ち、艦の爆発を早めた結果になっている。

機関

機関出力は130,000hpを発揮し、4万トンを超える船体を戦闘速力30ノットで走らせる事ができた(公試では31.4ノット)。航続性能は14ノットで4200海里と駆逐艦並の航続性能しかなかったが、他国と異なり、イタリアは地中海の中央部に位置する事から地中海という狭い海域だけで行動できればよしとされたので、設計段階で燃料タンク自体の大きさを小さくして浮いた重量を武装や防御に回した結果であった。これは、列強他国にはないイタリア海軍だけの特徴である。

艦歴

ヴィットリオ・ヴェネトはトリエステカンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコで1934年10月28日に起工、1937年7月25日に進水し、イタリアフランスおよびイギリスとの戦争開始後の1940年4月28日に竣工した。

1940年11月27日にはスパルティヴェント岬沖海戦に参加し、遠距離からの7度の主砲斉射によりイギリスの巡洋艦隊を後退させた。

1941年3月26日から29日にかけてヴィットリオ・ヴェネトはマタパン岬沖海戦に参加し、ペロポネソス半島沖で砲戦を繰り広げた。カヴドス島近海でイギリスの巡洋艦隊に小規模の被害を与え退却させた後、ヴィットリオ・ヴェネトは雷撃機による攻撃を受け、帰還を余儀なくされた。イタリア艦隊はヴィットリオ・ヴェネトを援護するため5列の特異な陣形を取ったが、二度目の航空攻撃および続く夜戦で、3隻の重巡洋艦と2隻の駆逐艦がイギリス戦艦による砲撃で撃沈された。

魚雷攻撃により大きく破損し、4,000トンの海水が浸水したものの、ヴィットリオ・ヴェネトはタラントに帰還した。しかしながら修理には5ヶ月を要した。

1941年12月14日、北アフリカへ補給船団を送るM41作戦で出撃中にイギリス潜水艦アージの雷撃を受け、魚雷1本が命中し損傷。

1942年には「Gufo」E.C.4 レーダーを装備する最初のイタリア戦艦となる。

ヴィットリオ・ヴェネトは地中海で56回の作戦活動に参加し、その内の11回は索敵攻撃任務であった。

1943年9月8日の休戦後、ヴィットリオ・ヴェネトはエジプトに派遣され、スエズ運河グレートビター湖で抑留された。ヴィットリオ・ヴェネトが連合国軍と共にフランス南部および太平洋で戦闘に参加するという提案は、政治的・運用上の配慮により実現しなかった。

第二次世界大戦後、ヴィットリオ・ヴェネトは賠償艦としてイギリスに回航されたが、その後イタリアに返還され、1948年に除籍された後も長期間保管されていたが、1960年にスクラップとして廃棄された。

参考文献

  • 「世界の艦船増刊第41集 イタリア戦艦史」(海人社)

外部リンク

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