ミニ (BMC)
ミニ(Mini )は、イギリスのブリティッシュ・モーター・コーポレーションが生んだ大衆車。自動車としての必要最小限を形にした設計は、登場当時、革命的とまでいわれた。
目次
概要
長く低迷したイギリスの自動車工業界の状況を反映し、生産、販売会社の名前は幾度も変わったが、 ミニ自体は2000年まで40年以上に渡り生産、販売が継続された。平成2年 (1990年) 頃には日本の企業がミニの製造、販売権を取得する計画[1]もあったが実現せず、平成6年 (1994年)以降はドイツのBMWが、ランドローバーと同時にローバーを傘下とし、ミニにまつわる権利も手中にした。
BMWは新規に投入する同社初となるFF車をニューミニと位置づけ、それまでの資産を生かしたビジネスをすべく、傘下となった旧ローバーの技術者による車両開発を行ない、平成13年 (2001年) から英国のオックスフォード工場(旧ローバー社カウリー工場)で生産開始され販売されている。テンプレート:Main
BMWのミニが登場したことで、初代「ミニ」は、「クラシックミニ」、「BMCミニ」、「ローバーミニ」とも呼ばれる。
なお、イギリスは日本と同じ左側通行故にオリジナル版は右ハンドル車であり、これと軽自動車相当なコンパクトなサイズが評価されモデル晩年は日本が主要顧客となっていた。但し、日本に輸入されたミニには左ハンドル仕様車も多い。これは日本で施行された排気ガス規制(昭和50年 (1975年) 排ガス規制~昭和53年 (1978年) 排ガス規制)に対し、規制値が近いカリフォルニア州仕様車(対米輸出車)を輸入していた時期があったためである。
歴史
オリジナルのミニはイギリスブリティッシュ・モーター・コーポレーションの技術者であるアレック・イシゴニスの指揮するチームによって設計された。
開発は1956年初頭から新コンセプトの小型車として着手されたものであったが、同年9月スエズ動乱が中東で勃発し、石油価格が高騰したことが大きな転機となった。
石油難で大衆が3輪・4輪の粗末なバブルカー購入に走るのを憂いたBMCの経営責任者サー・レオナード・ロードは、対抗のため、開発陣に「極めて経済的な4人乗り小型車を早急に開発すること」を命じた。この際、ロード会長は「どんなエンジンを使っても良い、ただし既存のラインナップにある中から」という開発条件を提示した[2]。これを受けて開発陣は当時のBMCが生産していたエンジンを流用する(つまり、当時のBMCで小排気量クラス用エンジンだったAシリーズ4気筒エンジンを使用する)ことにした。
また先の開発条件は、裏を返せばエンジン以外は設計陣にあらゆる手段を用いることが許容されていた。こうしてミニは現在の小型車の定番になっている横置きエンジン、前輪駆動、2ボックススタイル(ハッチバックではなく、独立したトランクを持っていた)という、1950年代後半としては画期的な成り立ちの自動車として設計されることになる。
ミニは全車種で一般的な4気筒水冷エンジンを採用していた。それまでの車のパッケージとは異なり、エンジンを横置きにして、トランスミッションをオートバイと同様にエンジン下部のオイルパン内部に置き、エンジンオイルで共通潤滑する構造とした。これらの工夫によって前輪駆動が可能となった。コンパクトなパワートレイン設計によって、小さな車体にもかかわらず、必要十分な室内空間を確保することに成功している。
横置きエンジンによる前輪駆動自体は2気筒の軽便な車両では第二次世界大戦以前から見られたが、サイズの大きな4気筒エンジンでは実用車として世界でほぼ最初であった。イシゴニスはこのレイアウトの着想を1946年頃から抱いていたというが、前輪駆動に適した「バーフィールド・ツェッパ等速ジョイント」が1950年代後半に実用化されたことが、当時イギリスでほとんど例のなかった前輪駆動を採用するブレイクスルーの決め手となった。
FF車のエンジンとトランスミッションの配置はメーカーごとにさまざまであったが、現在では、4輪駆動を主力商品とするメーカーであるアウディやスバルの上級モデルに縦置きエンジンのFFが見られるのみで、ほとんどのFF車は横置きエンジンとなっている。
横置きエンジン方式自体は時代に先んじたエレガントな技術革新だったが、ミニと同じ二階建てパワートレインの「イシゴニス・レイアウト」を採用した車種は非常に少なく、イシゴニスの手になる、ミニの拡大版ともいえるBMCのADO14、16、17、ポストイシゴニスのADO27、67以外では、フランスのプジョー204・304やプリンス自動車時代に設計が始まった日産・チェリーと、ミッドシップのランボルギーニ・ミウラ程度しかなく、より広く普及して一般化したのは、イタリアで1960年代に開発され、トランスミッションをエンジンと直列に横置きして車両内での前後長を短縮した、ジアコーサレイアウトであった。
全長3mほどに過ぎないコンパクトなボディは、設計者のイシゴニスが自らのスケッチでデザインするという異例の過程でスタイリングされた。だがコンセプトと内部構造を熟知した設計者自身のデザインは、機能に直結した合理性に富むもので完成度が高く、そのまま生産されることになった。組み立て時の手間を節約するためボディには風変わりな外板の継ぎ目が見られる。生産はバーミンガムのロングブリッジ工場で行われた。
MK I 1959年-1967年
テンプレート:Vertical images list ミニは最初 ADO15(ADO はAustin Drawing/Design Officeを表す)というプロジェクト名で呼ばれ、最初のモデルはオースチン・セブン(しばしばSE7ENと表記される)及びモーリス・ミニ・マイナーの名でイギリス国内向けに発売された。「セブン」とは、第二次世界大戦前、大成功を収めたオースチンの大衆車にあやかったもので、「マイナー」は、「ミニ」とかけた「洒落」であるという。1962年までには北米とフランスでもオースチン850、モーリス850の名前で発売された。
ミニのサスペンションスプリングには、一般的な金属ばねではなく、当時ばねの先端素材として注目されていたゴムを使っている。ゴムメーカーであるダンロップの技術者アレックス・モールトンの設計による、円錐状に成型されたゴムばねを用いたラバーコーンサスペンションである。このばねは強いプログレッシブレートを持ち、最小のストロークで最大のエネルギー吸収量を得る様に設計されている。この強いプログレッシブ・レートを持つばねや、フロントが高くリヤが路面上にあるという特異なロールセンター設定のサスペンション、量産車としては今日の基準でも驚異的に速いステアリングギアレシオや、回転慣性モーメントやジャイロ効果の小さい10インチのタイヤなどによってゴーカートのようなハンドリングが生まれた。
設計者イシゴニスの友人で、1959年と1960年のF1のコンストラクターズ・チャンピオンに輝いたクーパー・カー・カンパニーの経営者ジョン・クーパーは、当時英国内のサルーンカーレースにトライアンフで参加していたが、ライバルであるロータス車の次元の違うハンドリングに太刀打ちできずにいた。この時イシゴニスにミニの試作車を見せられ、その驚異的なハンドリングに注目、何回かの実験とテスト走行の後、イシゴニスと共同で、機敏で経済的で、しかも安価な車を作ることを決意した。その成果として、1962年にADO50、「オースチン・ミニ・クーパー」と、「モーリス・ミニ・クーパー」が誕生した。
1964年にハイエンドモデルのサスペンションは、内部にオリフィスと空洞を持つゴムばねを、前後輪でパイプで連通し不凍液を満たしたハイドロラスティック(Hydro=水とErastic=ゴムの合成語)システムに変更された。この新しいサスペンションは柔らかな乗り心地で「魔法の絨毯」とも喩えられていたが、重量と生産コストが余計にかかり、またピッチングの制御が難しくセッティングの幅も狭いなど問題もあり、Mk III前期を最後に元のラバー・コーンサスペンションに戻された。
ミニは映画やミュージシャンなどを通じて、1960年代の大衆文化の中にその存在を焼き付けた。ビートルズのメンバーや、イギリス女王であるエリザベス2世もミニのオーナーだった。
ミニ・クーパーは1964年、クーパーSでは1965年、1967年のモンテカルロ・ラリーで総合優勝している。補助灯のレギュレーション違反ということで失格となったものの、1966年にもゴール時の成績は優勝相当であった。
又、BMCワークス監督で後の英国フォードでも活躍する事となるスチュワート・ターナーは本格的なペースノート、レッキ、サービス計画等ラリーに近代的なチームオペレーションを持ち込んだ事でも知られるようになる。[3]
1960年代のミニの売り上げは全モデルで好調であったが、生産メーカーにはほとんど利益をもたらさなかった。競合他社との競争に勝つために製造原価を割り込む価格で販売することを余儀なくされたためである。
クーパー/クーパーS
オリジナルのモーリス・ミニ・マイナーに搭載されていた848ccのエンジンは997ccまで排気量が増やされ、馬力も34馬力から55馬力に高められた。このエンジンにはレース向けのチューニングが施され、当時小型車には馴染みのなかったSUツインキャブレターとディスクブレーキが装備された。経営陣はこのモデルの生産を決め、1,000台を発注した。これは、経営陣が参加を目指していた、FIAの、当時のグループ2規定の生産義務台数をクリアするためであった。1964年、997ccのエンジンが、よりストロークの短い998ccのモデルに変更された。これ以降、1967年にクーパーモデルの生産が終了するまでに計12,274台の「クーパー」が販売された。1963年にはよりパワフルな「クーパーS」モデルが相前後して開発、生産された。
「クーパーS」は1,071ccのエンジンと、より大型のディスクブレーキを特徴とし、1964年8月のモデルチェンジまでに計4,030台が生産、販売された。当初A型エンジンの排気量拡大は1,071ccが限界と見られていたが、ダウントンのダニエル・リッチモンドがボア・ピッチをずらして1,275ccまで拡大する手法を考案、イシゴニス、クーパー、リッチモンドの歴史的な3者会談により、量産型の1275クーパーSの計画がスタートした。量産に際して、サーキット・レースのクラス分けに合致した970ccと1,275ccの2つのモデルを新たに追加、970ccモデルはあまり売れず、963台が生産された後1965年に生産終了となったが、1275ccの「クーパーS」は40,000台以上が生産され、1971年に生産終了となった。 テンプレート:-
MK II 1967年 - 1969年
テンプレート:Vertical images list 1967年から1970年までの間、イシゴニスは実験モデルとして9Xと呼ばれる代替モデルを設計していた。この車はミニよりも高出力であったが、当時BMCとスタンダード・トライアンフの合併で設立されたブリティッシュ・レイランドの政治力によって結局生産されることはなかった。しかしこのモデルは技術的にも先進的であったため、もし現実に生産されていれば、1980年代まで他社に対し競争力を保てたかも知れない、と多くの人々が考えている。テンプレート:要出典
1967年、ボディがMk IIと呼ばれるタイプに変更された。フロントグリルはデザインし直され、リアウインドウも左右に拡大された。ドア上の水切りが廃止され、雨樋も工数を減らしたものに変わった。リアコンビランプは、大きな角型のものへと変更された。
エンジンは998ccと1275ccの二種類が用意された。998ccモデルは55,000台以上が販売され、1969年に生産終了となった。
1275ccモデルは1969年から1970年にかけて、わずかに改良を施したMk IIIボディを採用した後、1972年1月まで販売された。クーパー社は輸出モデル向けの改造キットの開発と販売に事業を切り替え、1975年まで販売を続けた。
コストと重量がネックとなり、ハイドロラスティックシステムは廃止された。
この頃1969年の映画『ミニミニ大作戦』(The Italian Job )にも出演しており、その小ささや走りの良さをクローズアップした小気味良いカーチェイスの演出は、2003年のリメイク版には見られない美点となっている。
クラブマン&MK III 1969年 - 1977年
設計変更に伴い、開発コードがADO20となる。9Xと12Xが前期型、99Xが後期型と区別されている。
1970年代初め、ブリティッシュ・レイランドの所有ブランドとなっていた頃、ミニはその「顔」を変更している。フロントデザインを変更したバージョンはミニ・クラブマンと呼ばれ、現代的な角ばったルックスを誇っていた。同時に 1275 GT と呼ばれる新モデルが旧ミニ・クーパーSの後継として計画された。また、カントリーマンとトラベラーの後継としてクラブマン・エステートが発売されることとなった。しかしブリティッシュ・レイランドは旧型の1960年代デザインのミニも引き続き生産し続けた。これは賢明な判断であった。なぜなら新型モデルはほぼあらゆる方面で酷評され、早々に消えていったからである。
1971年、ミニ・クーパーのデザインがイタリアのイノチェンティとスペインの Authi 社にライセンスされ、それぞれイノチェンティ・ミニ・クーパー 1300 及び Authi ミニ・クーパー 1300 として生産された。
1974年、イノチェンティはミニのプラットフォームを元にベルトーネが設計したハッチバックモデルであるイノチェンティ90と120を導入した。ベルトーネはミニ・クーパーの同型車で1,275ccターボエンジンを搭載したイノチェンティ・デ・トマソも開発した(後にダイハツ製エンジンに変更)。
この頃の日本仕様車はキャピタル企業が輸入していたが、フェンダー部分が本国仕様のままでは日本の保安基準に抵触するので、正規輸入車は加工されていた。
1978年 - 1980年
(通称MK 4)
初期の特徴でもあったセンターメーターは、この時期をもって廃止される。
1981年 - 1984年
(通称MK 5)
通常のミニを「ミニH/L」に名称変更。クラブマンシリーズのダッシュボードとメーター周りが流用される。
10インチホイール+フロントドラムブレーキはこの時期までとなる。
1983年、日英自動車が正規輸入元となり、いわゆるディーラー車の販売を開始する。
1980年、オースチン・ミニ・メトロの発売が失敗に終わるとともに、ミニの生産終了が迫っているといううわさが再び持ち上がった。
1981年にはニュージーランドで、ジェフ・マーフィー監督の Goodbye Pork Pie というロードムービーにミニが出演した。しかしこの頃には多くの国への輸出市場でミニの人気は低下し始めていた。南アフリカやオーストラリア、ニュージーランドでの生産はこの頃までに全て中止となった。ニュージーランドでは組み立てラインを当時新たに人気が出ていたホンダ・シティの生産に切り替えた。
1980年代を通じてイギリス市場では数多くのスペシャル・エディションが発売され、これによってミニは大衆市場向けの製品からファッショナブルなアイコンへと役割を変えていった。現在ミニブランドがBMWの所有となっており、それに対してBMCの残りの部門がローバー・グループとしてまとめて売却されたのは、ミニが持つこのイメージのためであるとも言える。
人気が高いミニは、一方ではレトロスタイルのモチーフとしても捉えられており、日本の自動車メーカーによって、ミニを模倣した多くの車が生み出される元となっている。
1985年 - 1988年
(通称MK 6)
エンジンがメトロと同じ、A+(エープラス)に変更される。
フロントディスクブレーキが採用され、それに伴いホイール径が12インチとなる。
1989年 - 1991年
(通称MK 7)
ブレーキマスターバックを標準装備した。
1989年10月、誕生30周年を記念した「サーティー」(4MT 税別179万円)を発表。
1.0Lモデルのミニ1000生産終了。
1991年 - 1992年
(通称MK 8)メトロのエンジンを流用し、全車種1.3Lとなる。
1991年、待望の「クーパー」モデルが復活する。新しいクーパーは1960年代のクーパーよりも性能的には若干劣るスペックで一時的に再発売された。この車種は非常に人気を博し、新しいクーパーマークを付けたミニは、1991年終わりにはフル生産体勢に入った。 Engineering Research and Applicationsチューニングの「ERAターボ」は、大きく出張ったエアロパーツに太いタイヤが威圧感を放った限定車だった。
1991年6月、「ERAターボ」、「クーパー1.3」、カスタムや競技用ベースとしての需要を見込んだ、最廉価版の「スプライト」を日本導入(ERAターボ359万円、クーパー1.3 194万円、スプライト144万円 すべて4MT、税別)。次いで7月、キャンバストップ(4MT 税別175万円)を日本導入。
1992年 - 1996年
(通称MK 9)
1992年、全車インジェクション化される。これはメインマーケットである日本市場の要望(クーラー装着が必須のため)からといわれている。ただし、インジェクションと言ってもシングルポイントインジェクション(SPI)であり、日本車で主流となっている各シリンダーの吸気ポートに噴射する方式ではない。同年6月、インジェクションモデルを日本導入。クーパー1.3iの4MTのみが62馬力、その他のグレードは53馬力となった。
1994年にはイシゴニスの甥である ベルント・ピシェッツリーダー(当時のBMW社長)の下、BMW がローバーグループを統括することとなり、ミニブランドもBMWに買収された。
また同時にBMWは全く新しいミニの開発を始めることを決め、膨大な開発予算を計上している。この頃からコストダウンが目立ち始め、特別仕様車の頻繁な発表が相次ぐようになる。
1996年6月、モンテカルロラリー出場車を彷彿とさせる4連フォグランプを装備し、Mk I当時のアーモンドグリーンのボディーカラーをまとった誕生35周年記念モデル、「35thアニバーサリー」(4MT 税別189万円)を日本導入。塗色は他にフレームレッドも用意。
1997年 - 2000年
テンプレート:Vertical images list (通称MK 10)
各国の衝突安全基準に対応するため、ミニにSRSエアバッグと、サイドインパクトバーを初採用。この延命策により、ミニの生産打ち切りまで猶予のあることが予想された。
1997年エンジンを改良。マルチポイントインジェクションエンジンが導入され、点火系が同時点火方式となる。
マルチポイントインジェクション仕様は発表されてから生産終了の2000年までの間、日本には導入されなかった。
1998年1月、13インチホイールと大型フェンダーを装備した「クーパー スポーツパック・リミテッド」(4MT 税別224.9万円)を日本導入。
4月、ポールスミスとのコラボレーションモデル、「ポールスミス」(4MT 税別200.9万円)を日本導入。車内、エンジンタペットカバー、プラグコード、工具入れ、トランク用クッションなどにアクセントカラーのライムグリーンを配した。
8月、1968年のブリティッシュ・サルーン・カー・チャンピオンシップ(BSCC)のクラス優勝と、総合優勝の30周年記念モデルとして、「クーパーBSCCリミテッド」(4MT 税別229万円)を日本導入。 「クーパー スポーツパック・リミテッド」がベースとなる。
1999年6月、誕生40周年記念の「40th アニバーサリー・リミテッド」を日本導入。
同年9月、「クーパー 40th アニバーサリー・リミテッド」を日本導入。
2000年当時、ローバーは依然として莫大な赤字を抱えており、BMWはMGローバーのほとんどの部門を整理することを決定した。
MG とローバーは新たに設立されたイギリスの合弁企業であるフェニックスに売却され、ランドローバーはフォードに売却された。
BMWはローバーグループにより開発継続中であったミニ、およびブランド名を自社に残し、現在では完全に新しいミニを生産販売している。
オリジナルのミニは、少なくともヨーロッパでは、主な競合車種であるフォルクスワーゲン・ビートルやシトロエン・2CV、そして跡継ぎのメトロなどの大衆車達より、長く生き抜いた。最後のミニは2000年10月に組み立てラインを離れた。この年までに合計で530万台のミニが生産された。生産終了となる経緯については各国における衝突安全性や排出ガスの基準見直しによるところが大きいと言われている。末期は生産数のかなりの割合が日本向けとなっていたが、もはや新基準にミニは合致しなかったのである。
1999年12月、1900年代の カー・オブ・ザ・センチュリー を選ぶ投票がアメリカ・ラスベガスで行われ、ミニは第2位となり、ヨーロッパ車で最高の得票を得た(Car Of The Century はフォードT型が受賞した)[1]
生産終了後も日本国内のミニへの人気は根強いものがあり、ミニ・ミニクーパー専門店が全国に数多くある。
バリエーションモデル
テンプレート:Vertical images list 異なる市場に向けた様々な派生モデルが生まれた。
- 1961年、バッジエンジニアリングによるウーズレー・ホーネット(1930年代のスポーツカーの名前の復刻)とライレー・エルフ(ラグジュアリーカーの名門ブランド)を投入する。1952年以降のBMC時代、両ブランドは外観が同じで中身(仕様)で差別化されていたが、ADO15では仕様が同じで外観がわずかに異なっている。ホーネットがスポーティー、エルフがより上級な位置づけであったが、そのイメージは主に宣伝によって作られた。
両車とも、リアオーバーハングを延長して車体を3BOXとし、トランク容積を稼いでいる。小ぶりなテールフィンを持ち、リアコンビランプを収めている。フロントデザインも変更され、ミニマムサイズながら上級サルーンとして仕立てられた。プレーンなグリル枠で、縦枠上部に楕円形のウーズレーのイルミネーションエンブレム(行灯式)がついているのがホーネット、盾形のフロントグリルの上枠にひし形のライレーのブルーダイヤモンドエンブレムがついているのがエルフである。
- ウーズレー・ホーネット (Wolseley Hornet):1961-1969 生産台数:28,455台(ウーズレー)
- ライレー・エルフ (Riley Elf):1961-1969 生産台数:30,912台(ライレー)
- モーリス・ミニ・トラベラー / オースチン・ミニ・カントリーマン
- 1960年 - 1969年(英国のみ)
- 大衆車として標準的な2ドアのエステートで、上下開き、または観音開きのバックドアを装備している。高級モデルでは、荷室部分とバックドアに木製の飾りフレームがあしらわれている。
テンプレート:- テンプレート:Vertical images list
- バン / ピックアップ
- 業務用のライトバンとピックアップトラックモデルである。どちらもエステートモデル同様のロングホイールベースシャーシを使用している。バンのリアクォーターウインドウを省略することにより、イギリスでは税金が安くなることから、若者達にも人気が出た。バックドアは観音開きで、ルーフベンチレーターの設定もある。ピックアップはキャブと荷箱が分かれていないワンピースボディとなっている。
- ミニ・モーク
ミニのパワートレインを使ったクルマ
サブフレームの上に走るための仕組みが全て詰まったミニのパワートレインは、バックヤードビルダーと呼ばれる小規模な自動車メーカーや、安価なレーシングカーを望むプライベーターには打ってつけで、たちまちのうちに引っ張りだことなった。これらは資料が残っているものだけでも、120種以上ある。
- MiniMarcos.jpg
- Ogle SX1000 comp.jpg
- MIdas1979.jpg
脚注
- ↑ その場合、国内向けに車体サイズが近似な軽自動車版も予定されていた。
- ↑ 武田隆 『世界と日本のFF車の歴史』 グランプリ出版 2009年5月25日 p.66
- ↑ 三栄書房「ラリー&クラシックス Vol.4 "名優たち"の攻防」参考。