ロバート・ウォルポール
テンプレート:政治家 初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(テンプレート:Lang-en, KG, KB, PC, 1676年8月26日 - 1745年3月18日)は、イギリス(グレートブリテン王国)の政治家。首相(初代)、第一大蔵卿(第3代・第6代)。
生涯
ホイッグ党で台頭
イングランド東部のノーフォークの寒村ハクトンのジェントリ出身、家庭はホイッグ党を支持。イートン校から1696年にケンブリッジ大学キングス学寮へ進み、聖職者を目指すが、上の兄が夭折したため家産の相続者となり1700年に結婚、同年に死んだ父の資産を相続、翌1701年にホイッグ党から下院議員に当選し政界へ進出する。イギリス軍総司令官マールバラ公ジョン・チャーチルの妻でアン女王の寵臣であるサラ・ジェニングスに気に入られたこともプラスに働いた。
アン女王の治世で政権を握っていたシドニー・ゴドルフィンに登用され1705年から海軍本部の委員に選ばれ、1708年に陸軍事務長官(軍務大臣)に就任、スペイン継承戦争で大陸に派遣された軍の管理を担当した。しかし、1710年にゴドルフィンが更迭、トーリー党のロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンが政権に上ると陸軍事務長官を更迭、海軍主計長官に転任となるが1711年に罷免、翌1712年に汚職の罪でロンドン塔へ投獄された。同年に釈放、選挙で当選して政界に復帰、ホイッグ党からは期待の星として注目を浴びるようになる[1]。
1714年にアンが死去、アンの死後にハノーヴァー朝のジョージ1世(ハノーファー選帝侯を兼ねる)が即位するとトーリー党政権は崩壊、ホイッグ党政権が誕生すると陸軍支払長官に就任、1715年にハーレー・シンジョンらトーリー党員を弾劾して没落に追い込み、ジャコバイトの反乱も鎮圧してホイッグ党の優位を確立した。同年に第一大蔵卿に就任したが、大北方戦争を巡る外交政策でチャールズ・タウンゼンドと結託してジェームズ・スタンホープ・サンダーランド伯チャールズ・スペンサーと対立、1717年に第一大蔵卿を辞任してスタンホープが後任の第一大蔵卿に就任した。
しかしトーリー党と結んで野党活動を続けスタンホープ政権を動揺させた末、1720年に陸軍支払長官に再任されて政権に戻り、南海泡沫事件で政治家としての力量を発揮し、1721年にスタンホープが急死、サンダーランドが信用を失ったため再び第一大蔵卿に就任し、事実上の首相として1721年から1742年までの21年間に及ぶ長期政権を運営する[2]。
首相在任期の政策
政策は平和外交と重商主義が主で、外交・内政で対フランス融和策、地租軽減政策を実行、トーリー党への対策としてステュアート朝の復活を目指すジャコバイトの脅威を利用、トーリー党にジャコバイトのレッテルを貼り付け、議会も多数派工作でホイッグ党寡頭体制を敷く。具体的な方法は、1722年に起こったジャコバイト挙兵計画の発覚でジャコバイトを徹底的に弾圧、トーリー党=ジャコバイト弾圧作戦は成功を収め反対派を黙らせた。合わせてジョージ1世の信頼も厚くなり、政権の基盤を磐石にした。同年に行われた総選挙で大規模な買収工作と官職提供の約束を行い、ホイッグ党員をトーリー党員の2倍以上も当選させた。この選挙工作は当然野党から非難されたが、1727年の選挙でも大差をつけて下院の反対を封じ込めた。
1721年からの外交はタウンゼンドに任せ自らは内政に没頭する役割分担が取られた。しかし、オーストリアは1725年にスペインと同盟を結び(ウィーン条約)、タウンゼンドが反ハプスブルク家の立場からフランス・プロイセンと同盟(ハノーファー条約)を締結してオーストリアを孤立させる手立てを取ると平和重視の立場から対立、1727年にスペインとの戦争が発生するとタウンゼンドの頭越しにオーストリアと交渉を行い、1729年にセビリヤ条約で戦争を終結させた。翌1730年にタウンゼンドがウォルポールと決別して政府を去ると外交の主導権を握り、1731年に神聖ローマ皇帝カール6世の国事詔書を承認してオーストリアとウィーン条約を結び、ヨーロッパに小康状態をもたらした。この結果オーストリアの関係は修復したが、フランスとスペインはイギリスから離れることになり、新たな戦争の火種も潜むことになった。
内政は地租軽減政策で地主層の支持獲得を狙う一方、重商主義の観点から国内産業の保護と貿易の奨励を重視、関税は工業製品の輸出税と工業原料の輸入税を廃止、外国製品の輸入を規制、1723年に新税として保税倉庫制を考案・実行した。この徴税方法は輸入品を一旦倉庫に入れ、国内へ搬出する際に税を取るという方法であり、茶・コーヒー・ココア・胡椒などに適用させ成功を収めた。また、なるべく戦争を控えたため軍事費も抑えられ、政府の収支は黒字に転じていった。
ホイッグ党内部でもウォルポールに反対する勢力はあり、対抗勢力と目されていたジョン・カートレット(後にグランヴィル伯)はジョージ1世の信頼を得ていたが、1723年になると勢いを失い翌1724年にアイルランド総督へ配置換えとなり、1730年にウォルポールに更迭され対抗馬ではなくなった。また、1727年にジョージ1世が亡くなり息子のジョージ2世が即位すると、側近で下院議長のスペンサー・コンプトン(後にウィルミントン伯)が次期政権を担うと思われたが、コンプトンに議会統制力が無いことを見抜くと、王室経費の増額を議会に認めさせジョージ2世の妃キャロラインに接近、ジョージ2世からも重んじられ引き続き国政を担った。更にニューカッスル公トマス・ペラム=ホールズとヘンリー・ペラム兄弟を閣僚に迎えて下院の統制役を任せた。
これら一連の政策は野党からの反発を呼び、1726年に没落から復帰した政敵シンジョンがトーリー党の機関紙として『クラフツマン』を創刊、ホイッグ党内部でウォルポールに反発した議員が共に政府腐敗を攻撃して反対派を結集していった。一方で、閣僚の内でも限られたメンバー内で事前に政策の打ち合わせを行う慣習を作りあげ、後に内閣が本格的に構成されていくきっかけとなった。また、ジョージ2世から与えられたダウニング街10番地の邸宅は首相官邸として現存している[3]。
辞任
1730年代末より政治腐敗や消費税拡大、対フランス平和政策などが原因で政権が傾き、1733年の消費税(保税倉庫制の対象拡大)は撤回に追い込まれ、同年のポーランド継承戦争で中立の立場を取って参戦しなかったことは国際上の立場を悪化させた。しかしこの時点ではまだウォルポールの権勢は衰えておらず、1734年の総選挙でも依然としてホイッグ党が過半数を占め、反対に野党はトーリー党と反ウォルポール派のホイッグ党が対立、シンジョンが対立に嫌気が差して政界から引退するなど野党の足並みが乱れ、政権は安定を保っていた。
だが、1737年に入るとスコットランドの都市エディンバラで起こった暴動に介入したことでスコットランド貴族で閣僚のアーガイル公ジョン・キャンベルが離反、ジョージ2世の嫡男でフレデリック・ルイス王太子がウォルポールと対立するようになり、同年に王妃キャロラインが死去したことも痛手となり政権は危機を迎えた。この年、腐敗した政権を批判する度重なる風刺劇の上演に業を煮やし、劇場の閉鎖を含む演劇検閲法(Licensing Act)も出している。また、貿易を巡るスペインとの対立から野党が強硬な姿勢を取るべきとの請願を出すと、これに押し切られる形で1739年にジェンキンスの耳の戦争を勃発させ、平和政策を放棄した。翌1740年にはヨーロッパ大陸でオーストリア継承戦争も発生、戦争に伴い地租引き上げも行われ、地主層の支持も期待出来なくなった。
そして、1741年における総選挙ではアーガイルと王太子が敵に回った影響でスコットランド、コーンウォールなどで敗れ、与野党の差が18議席にまで縮まった。選挙結果の異議申し立てを判定する委員会の委員長選挙で敗北したため、選挙介入による結果の巻き返しも不可能となり、敗北を悟ったウォルポールはジョージ2世の慰留にもかかわらず、翌1742年に第一大蔵卿を辞任した。このことから、議会内で優勢な勢力が内閣を組織して議会に対して責任を持つという、議院内閣制(責任内閣制)の基礎がつくられた。引退後は初代オーフォード伯となり、1745年にロンドンで死去。68歳だった[4]。
オーフォード伯は同名の長男ロバート・ウォルポールが継いだ。小説『オトラント城』で知られるホレス・ウォルポールは3男で、後に孫の第3代オーフォード伯ジョージ・ウォルポールが死亡した後を継いで第4代オーフォード伯となったが、彼にも子がなく、1797年の死でオーフォード伯爵家は断絶した。後任の首相はコンプトンが就任、かつての政敵カートレットが背後で政権を主導したが、僅か1年でコンプトンが亡くなると孤立、ウォルポールの部下だったペラムが新政権を打ち立てると政府から追放され、以後はペラム兄弟による政権がイギリスを担うことになる。
人物
美術品のコレクターでもあり、現在はその一部がエルミタージュ美術館に所蔵されている。一方文芸や文学者の保護には熱心でなかったため、1737年に検閲を行った影響もあり、ジョナサン・スウィフトやヘンリー・フィールディングなどは彼を風刺して批判した。また、有名なマザー・グースの「クックロビンの歌」は政権末期のゴシップを鳥になぞらえて歌ったものという説がある。
ウォルポール時代は議院内閣制が発達した時代として知られ、ウォルポールはイギリスの政治に安定をもたらし、彼の治世は「ロビノクラシ」「パックス・ウォルポリアーナ」とも呼ばれる。南海泡沫事件で関係者の処罰を徹底せず中途半端に終わらせたことは遮蔽幕(スクリーン)と皮肉られたが、反対派の弾圧を控える方針で政争に発展させなかったことはジョージ1世の信頼を得て出世に繋がった。ただし、首相になってからはトーリー党の弾圧と選挙における買収・買官運動を盛んに行い、野党からしばしば非難されている。
選挙の不公平の象徴である腐敗選挙区を利用したり、目立った政策が無いため評価は一定していないが、1726年にイギリス旅行に訪れたヴォルテールは旅行記『哲学書簡』でウォルポール政権下のイギリスを観察、宗教対立がなく商業がイギリスの繁栄を築いたと称賛している。いずれにせよ、平和外交と重商主義でイギリスに大きな波乱を起こさず繁栄に導いたことは確かであり、後にイギリスが商業国家として発展するきっかけを生んだ[5]。
子女
1700年にキャサリン・ショーターと結婚、6人の子を儲けたが、後にキャサリンの不行跡に不満を抱き別居した。
- ロバート(1701年 - 1751年) - 第2代オーフォード伯
- キャサリン(1703年 - 1722年)
- ホレーショ(1704年)
- メアリー(1706年 - 1732年)
- ホレス(1717年 - 1797年) - 第4代オーフォード伯、小説家
- エドワード(1720年 - ?)
1737年にキャサリンが亡くなると、1738年に愛人だったマリア・スケリットと再婚したが、同年にマリアは流産で急死した。
脚注
- ↑ 小林、P16 - P29、友清、P147、P215、P286 - P288、P334 - P335。
- ↑ 浜林、P366 - P369、P380 - P403、今井、P279 - P289、小林、P29 - P37、友清、P388 - P390。
- ↑ 浜林、P363 - P365、P403 - P422、今井、P290 - P298、小林、P37 - P48、P52。
- ↑ 浜林、P422 - P433、今井、P298 - P307、P318、小林、P48 - P50。
- ↑ 浜林、P400、P407 - P411、今井、P289、P294、小林、P17 - P21、P40 - P41、P46 - P51。
参考文献
- 浜林正夫『イギリス名誉革命史 下巻』未来社、1983年。
- 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 -近世-』山川出版社、1990年。
- 小林章夫『イギリス名宰相物語』講談社現代新書、1999年。
- 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007年。
関連項目
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