トマス・ペラム=ホールズ (初代ニューカッスル公)

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テンプレート:政治家 初代ニューカッスル=アポン=タイン公爵 及び 初代ニューカッスル=アンダー=ライン公爵、トマス・ペラム=ホールズテンプレート:Lang-en, テンプレート:Post-nominals 1693年7月21日 - 1768年11月17日)は、イギリス政治家貴族

ホイッグ党に所属し、ロバート・ウォルポールや弟ヘンリー・ペラムの政権の閣僚を務めた後、二期に渡って首相(在職:1754年3月16日-1756年11月16日1757年7月2日-1762年5月26日)を務めた。首相在任中はフレンチ・インディアン戦争7年戦争などフランスとの戦争に追われた。

テンプレート:仮リンク庶民院における支持基盤が弱かったため、短期間で辞職に追い込まれた。テンプレート:仮リンクは庶民院の支持を得ていたが、国王の重臣ビュート伯爵ジョン・ステュアートに辞職に追い込まれた。そのため第二次内閣下野後、彼の派閥から議会政治擁護・反国王の野党勢力ロッキンガム侯爵派が形成されていく。

経歴

生い立ち

1693年7月1日テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクとその妻グレース(第3代クレア伯爵テンプレート:仮リンクの娘)の長男として生まれる[1]

1711年に母方の伯父にあたる初代ニューカッスル=アポン=タイン公爵テンプレート:仮リンクが死去し、その遺領を相続した際にペラム=ホールズの複合姓に改名した[2][1]

ウェストミンスター・スクールを経てケンブリッジ大学テンプレート:仮リンクへ進学した[2][1]

1712年に父からテンプレート:仮リンクを継承[2][1]ホイッグ党所属の貴族院議員となる。1715年には伯父と同じニューカッスル=アポン=タイン公爵に叙された[1]

政界での昇進

1717年から1724年にかけてはテンプレート:仮リンクを務める[1]

1724年に南部担当大臣テンプレート:仮リンクが首相ロバート・ウォルポールによって解任された後、その後任としてテンプレート:仮リンクに任じられた。この際に弟のヘンリー・ペラムも陸軍事務長官として入閣しており、以降ペラム兄弟はホイッグ党の中枢となっていく[3]

1727年テンプレート:仮リンクではウォルポール首相の参謀として選挙戦を指揮した。政府の機密費を流用して有権者を買収したり、官職を餌に選挙区有力者の取り込みを図るなどした結果、与党は400議席以上の大議席を獲得した(野党トーリーは128議席、ホイッグ党内反ウォルポール派は15議席)[4]。しかしこうした買収や官職をちらつかせたやり口は野党からは「腐敗」と批判された[5]

1739年に勃発したジェンキンスの耳の戦争は、ウォルポール首相にとっては不本意な戦争であり、積極的に戦争指導する意思も薄かったので、ウォルポールの政治力はこの頃から急速に低下した。ニューカッスル公もウォルポールの方針に反対することが増えていった[6]1741年テンプレート:仮リンクでは与野党の議席差が20議席まで縮まったことでウォルポールの権威は更に低下。1742年2月に至ってウォルポール内閣は総辞職を余儀なくされた[7]

後任の首相となったテンプレート:仮リンクスペンサー・コプトンの内閣にも南部担当大臣として留任したが、彼は閣内においてウォルポール前首相を支持する「旧軍団」の閣僚の代表格であり、内閣の実質的な中枢だった反ウォルポール派のカートレット卿とは相いれなかった[8]

弟ヘンリーを支える

1743年にウェルミントン伯爵が病死すると、弟のヘンリー・ペラムが首相となる。ニューカッスル公は引き続き南部担当大臣として残留し、弟の政権を支えた。

オーストリア継承戦争をめぐって親ハノーファー政策を主張するカートレット卿(彼は1844年にグランヴィル伯爵に叙される)とそれに反対するペラム兄弟の対立が深刻化し、ペラム兄弟は1744年にグランヴィル伯爵更迭を求める上奏文を国王ジョージ2世に提出した。国王はグランヴィル伯爵更迭を避けたがっていたが、ペラム兄弟の意思が固いと知ると、しぶしぶグランヴィル伯爵を辞職させた[9][注釈 1]

1748年にはテンプレート:仮リンクに転じている[1]。同年、アーヘンの和約が締結され、オーストリア継承戦争が終結した。ペラムは戦時財政解除を目指して、海軍縮小、土地税率軽減、国債統一、国債利子率上昇などの改革を開始した。ニューカッスル公爵がその先頭に立ち、改革に反対する閣僚と衝突するようになり、1751年6月には最も鋭く対立したテンプレート:仮リンクを内閣から追い出すことに貢献した。ベッドフォード公が内閣を去った後にはペラム兄弟の権勢を脅かす者はなくなった[11]

第一次ニューカッスル公爵内閣

1754年3月に弟ヘンリー・ペラムが死去。代わって組閣の大命を受けたのがニューカッスル公爵だった。しかし彼は貴族院議員であり、また庶民院内にパートナーにするほど信頼できる有力者を見つけられなかったので、テンプレート:仮リンクは発足当初より不安定だった[12]

同年に行われたテンプレート:仮リンクは与党の勝利に終わったものの、1754年11月から招集された議会では、庶民院内に大きな勢力を持つウィリアム・ピット(大ピット。当時陸軍支払長官)やテンプレート:仮リンク(当時陸軍事務長官)が政権内不満分子となって公然と政権批判を展開した[13]

折しも北アメリカフレンチ・インディアン戦争が勃発し、イギリスは対仏開戦したが、陸でも海でも敗北した。またヨーロッパ大陸の情勢も不穏になったため、同君連合ハノーファー王国を守るべく、1755年夏から秋にかけてヘッセン大公国およびロシア帝国と条約を結んだが、その見返りとしてこの両国に多額の供与金を与えることになったため、この政策は批判された。ニューカッスル公は庶民院内の反対勢力を抑え込むべく、1755年11月にフォックスを庶民院院内総務に任じて懐柔するとともに、ピットを政府役職から更迭した[14]

1756年5月にフランス軍が英領ミノルカ島に上陸するとフランスに対して宣戦布告したが、ミノルカ島を奪還に派遣された艦隊は敗北し、北アメリカでも敗戦を重ね、イギリスは劣勢に立たされた。内閣に見切りを付けたフォックスは庶民院院内総務を辞職した。ニューカッスル公爵は大ピットに協力を要請するも拒否され、総辞職は避けられなくなった[15]

1756年11月に内閣総辞職した。代わって大ピットが事実上指導するデヴォンシャー公爵内閣が発足したが、ニューカッスル公を排除して作られたこの政権は与党内の支持を広げられず、1757年4月にも国王から更迭された[16]

第二次ニューカッスル公爵内閣

デヴォンシャー公爵の後継をめぐってはニューカッスル公爵とフォックスの間で争いがあったが、ニューカッスル公爵は更迭された大ピットと手を組むことで庶民院における基盤を確立し、フォックスとの競争に競り勝った。1757年6月末に組閣の大命を受け、テンプレート:仮リンクが成立する運びとなった[17]。同内閣においてニューカッスル公爵は、国王や議会から安定した支持を確保することで軍事費を調達する役割を担い、7年戦争の戦争指導は大ピットが担っていた[18]

2人は協力して七年戦争の遂行に全力を注ぎ、フランスの植民地の制圧に大きく貢献した。しかしヨーロッパ大陸での戦況が思わしくなく、彼らの人気はフランスのカナダの根拠地であるケベックを占領した1759年をピークに下降に転じた[19]

さらに、ジョージ2世1760年に崩御し、孫のジョージ3世が即位すると、その家庭教師役を務めていたビュート伯爵ジョン・ステュアートが国務大臣に任じられ、発言力を増した。国王とビュート伯爵は7年戦争の早期講和を目指しており、完全勝利まで戦争続行を主張する大ピットと対立を深めた。1761年8月にフランスとスペインが同盟を締結すると、大ピットはスペインにも宣戦布告することを要求したが、国王とビュート伯爵はそれに反対した。ニューカッスル公も財政が持たないことと国民の厭戦気分が高まっている事を理由にスペインとの開戦には反対した。孤立した大ピットは10月に辞職した[20]

大ピットが閣内を去るとビュート伯爵の権勢は更に増し、ニューカッスル公も閣内で孤立しはじめた。スペインとは結局1762年1月に戦争になったが、ビュート伯爵は、その戦費を捻出するためにニューカッスル公のプロイセンへの供与金続行案に反対した。ニューカッスル公にビュート伯爵を押しとどめる力はもはやなく、プロイセンへの供与金廃止が決定されるに及んで辞職した。後任の首相にはビュート伯爵が就任した。1762年末までにニューカッスル公に近い政治家はほとんどが政府役職を更迭されている[21]

晩年

国王の重臣によってニューカッスル公爵が下野させられたことは、ホイッグ党の議会政治家の間に議会政治の危機という意識を高めさせた。1762年12月23日にはニューカッスル公爵派の議員たちが、ニューカッスル公爵の甥の家に集まり、以降定期的な会合を行うことを取り決めた。ニューカッスル公爵自身はそうした会合に反対していたため、会合の議長にはニューカッスル派貴族院議員ロッキンガム侯爵が就任した。これがロッキンガム・ホイッグ党のはじまりであった[22]

1763年中にはニューカッスル派内におけるロッキンガム侯の権威が増し、逆にニューカッスル公の権威は弱まった。さらに1764年にはニューカッスル公の盟友デヴォンシャー公爵とテンプレート:仮リンクが死去したため、ニューカッスル公の指導力はほぼ失われた[23]

一方、議会政治を危機に陥れる形で首相となったビュート伯爵は批判にさらされたため、ビュート伯爵内閣と続くジョージ・グレンヴィル内閣(ビュート伯爵の影響大)は短期間で総辞職に追い込まれた。1765年7月にはロッキンガム侯爵内閣が発足する運びとなった[24]。70歳を越えていたニューカッスル公爵は要職ではない王璽尚書として同内閣に入閣している[25]

1768年11月17日に75歳で死去した[1]

1717年テンプレート:仮リンク(第2代ゴドルフィン伯爵テンプレート:仮リンクと第2代マールバラ女公爵ヘンリエッタ・チャーチルの娘)と結婚していたが、子供は無かった。特別継承権(Special remainder)により、テンプレート:仮リンクが甥(妹ルーシーとリンカーン伯爵テンプレート:仮リンクの息子)の第9代リンカン伯爵テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクが従兄弟の初代チチェスター伯爵テンプレート:仮リンクに継承されている[1]

栄典

爵位

勲章

名誉職その他

脚注

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注釈

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出典

参考文献

外部リンク

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1712年1768年 |style="width:30%"|次代:
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テンプレート:イギリスの首相
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 テンプレート:Venn
  3. 今井(1990) p.291
  4. 今井(1990) p.294
  5. 今井(1990) p.302
  6. 今井(1990) p.300
  7. 今井(1990) p.301
  8. 今井(1990) p.302-303
  9. 今井(1990) p.304
  10. 今井(1990) p.306-308
  11. 今井(1990) p.308-309
  12. 今井(1990) p.311-312
  13. 今井(1990) p.312
  14. 今井(1990) p.312-313
  15. 今井(1990) p.313-314
  16. 今井(1990) p.315
  17. 今井(1990) p.315
  18. 今井(1990) p.315-316
  19. 今井(1990) p.317-318
  20. 今井(1990) p.321-322
  21. 今井(1990) p.322
  22. 小松(1983) p.164-165
  23. 小松(1983) p.166
  24. 小松(1983) p.157-158/166-167
  25. 今井(1990) p.360


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