リック・ランセロッティ

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テンプレート:Infobox baseball player リチャード・アンソニー・ランセロッティRichard Anthony Lancelotti, 1956年7月5日 - )は、アメリカ合衆国ロードアイランド州出身の元プロ野球選手外野手内野手)。

広島東洋カープ時代はランセロッティでは長すぎるためか、登録名ランスとなった。当時のプロ野球選手名鑑や野球カードなどでは「リチャード・ランス」と表記されている。

来歴・人物

グラスボロー短大を経て、1977年のMLBドラフト11巡目でピッツバーグ・パイレーツに指名されて契約。テンプレート:Byサンディエゴ・パドレステンプレート:Byサンフランシスコ・ジャイアンツメジャーに昇格した以外はマイナー生活であった。

テンプレート:ByNPB広島東洋カープ外野手として入団。前年に引退した山本浩二に代わる主軸打者として期待された。極端なプルヒッティングから本塁打を右翼スタンドの上段まで叩き込む長打力を持っていたが、好不調の波が激しく、この年に規定打席到達者のうち最低打率(.218)、最多三振(114個)でありながら6試合連続本塁打を記録するなど本塁打を量産し、最多本塁打のタイトルを獲得した。なお、同年は、チームメイトの正田耕三が本塁打0で首位打者になっており、同一チームから「規定打席到達者中最低打率の本塁打王」と「規定打席到達者中最低本塁打数の首位打者」を同時に輩出する結果になった。「三振か本塁打」の典型的な打者として、当時流行していた金鳥のタンス用防虫剤「ゴン」のCMにひっかけ「ランスにゴン」などと言われファンに親しまれ、広島の実況でも中国放送のアナウンサー(当時)の上野隆紘などから同様に「ランスにゴン!」と絶叫された。特に対読売ジャイアンツ戦に強く、ホームランを打った試合の広島の勝率は8割を超えた。

テンプレート:Byは不振もあってベンチを温めることも多く、またベンチにいる時に読書をしている点もマイナスの評価を受け、シーズン途中で解雇された。

帰国後の翌テンプレート:Byボストン・レッドソックスと契約し、テンプレート:Byにメジャー再昇格を果たした。テンプレート:Byはメジャー昇格はならず、同年限りで引退。

広島時代晩年の応援歌には元おニャン子クラブ生稲晃子の『麦わらでダンス[1]が使われていた。ダンスとランスの洒落である。その後応援歌は小川達明ロッド・アレンルイス・メディーナへ引き継がれ使用された。入団1年目の1987年は個人の応援歌がなく、個人テーマのない選手に用いられるコンバットマーチが使用されていた。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 SD 17 41 39 2 7 2 0 0 9 4 0 0 0 0 2 0 0 8 0 .179 .220 .231 .450
テンプレート:By2 SF 15 18 18 2 4 0 0 2 10 6 0 0 0 0 0 0 0 7 0 .222 .222 .556 .778
テンプレート:By2 広島 121 470 403 67 88 9 1 39 216 83 0 2 0 3 60 7 4 114 10 .218 .323 .536 .859
テンプレート:By2 79 305 264 33 50 7 3 19 120 50 1 1 0 7 32 3 2 58 2 .189 .275 .455 .730
テンプレート:By2 BOS 4 9 8 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 3 0 .000 .000 .000 .000
MLB:3年 36 68 65 4 11 2 0 2 19 11 0 0 0 1 2 0 0 18 0 .169 .191 .292 .483
NPB:2年 200 775 667 100 138 16 4 58 336 133 1 3 0 10 92 10 6 172 12 .207 .305 .504 .808
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

NPB

記録

NPB

背番号

  • 20 (1982年)
  • 31 (1986年)
  • 45 (1987年 - 1988年)
  • 10 (1990年)

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:MLBstats テンプレート:BASEBALLstats

テンプレート:セントラル・リーグ本塁打王

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  1. 当時放送されていたテレビアニメついでにとんちんかん』(フジテレビ)の3代目オープニング・テーマとしてポニーキャニオンより発売された。