ミスワカナ・玉松一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

ミスワカナ・玉松一郎(ミスワカナ・たままついちろう)は、日本の昭和初期から戦中にかけて活躍した夫婦漫才である。ワカナはイブニングドレスを着て、一郎は背広にアコーディオンを持ち、しゃべくりを基調としながら時おり歌を交えて華麗に繰り広げられる漫才は、横山エンタツ花菱アチャコと並び一世を風靡した。ミスワカナを名乗った人物は4名存在するが、初代が最も有名である。

メンバーについて

初代ミス ワカナ(本名:河本杉子、1910年10月20日 - 1946年10月15日[1] )は、鳥取県気高郡海徳村出身(現・鳥取市)。幼い頃から父とともに巡業、4歳で父が死去、9歳で本格的に芸界入りし、のちに安来節山村出雲に12歳まで師事した。そして14歳で2代目河内家芳春[2]に入門し、河内家小芳を名乗る。この頃は玉子家金之助と組んでいた。後に玉子家金之助は許婚となる。

玉松 一郎(たままつ いちろう、本名:河内山一二、1906年2月 - 1963年5月30日)は、大阪市淡路町出身。1923年大阪貿易語学院を卒業後、音楽家を志し、無声映画の伴奏をするオーケストラチェリストドラマーを務める。愛称は「たまいちさん」。

ワカナは1925年初代平和ニコニコとコンビを組み千日前楽天地に出演しこの頃は大八会所属、同地で一郎と出会い恋に落ちる。しかし、幼少期から許婚の玉子家金之助がいたワカナは、1928年郷里に戻り結婚して一女をもうける(後の三崎希於子)。
一方、一郎も両親に反対され仕事まで辞めさせられる。

翌年1929年にワカナは大阪に戻って活動再開。一郎も活動を再開し、たまたま玉造の朝日座で無声映画で伴奏をしていたところ、ワカナも近くの玉造の三光館で漫才の修行をしていた。
ある日タバコを買いに出掛けたときに二人がばったり再会し、周囲の反対を押し切って西へ駆け落ち。汽車の中でコンビを結成を決意し、玉松一郎の芸名は出会った場所の玉造の「玉」に一郎が当時住んでいた北区松ヶ枝町の「松」を取って名付けた。
広島の小屋で一郎がセロを持ってやる音曲漫才でコンビ初舞台。中国、九州地方を経て中国青島へ渡った。同地では漫才を続けていたが、一郎が土地に馴染めず腎臓の病気で体調を崩し塞ぎこむ日々が続く。ワカナは家計を支えるためダンサーやタップをやったりをした。一郎はこの頃にアコーディオンを習得した。
帰国後の1931年、ワカナは都家若菜に改名して一郎とコンビを組み、「若菜万歳一座」の名で九州地方へ巡業する。

1937年3月に林正之助が広島の呉の清水興行にいたワカナと一郎を誘い吉本興業へ入社させ、コンビ名をミスワカナ・玉松一郎とする。以降寄席、ラジオ出演、レコード録音を盛んに行う。
1938年1月には「わらわし隊」の一員として中国戦線へ慰問を行う。1939年4月、新興キネマ演芸部に引き抜かれ吉本興業を突然退社し、大騒動を巻き起こす。1940年、風紀上好ましくない芸名の改名を求めた内務省の通達によりミスワカナから玉松ワカナに改名する(他に松竹ワカナとも名乗っている模様。この時ワカナは「ミスワカナがだめならメスワカナにしましょうか」と言ったという)。その後ワカナはある妻子持ちの俳優に夢中になり、1944年に一郎と離婚するがコンビは続ける。1945年終戦を京都南座の芝居「勝利の日まで、勝ち抜く日まで」の上演の初日で迎える。この芝居は米兵の役を島ひろしを日本兵の役のワカナが務めた。しかし翌日から急遽作家の八木承が内容を変えた。

1946年阪急西宮球場での野外演芸会の帰りに阪急西宮北口駅のホームで、ワカナは心臓発作を起こし36歳の若さで急逝する。ヒロポンの中毒と過労が原因だったと俗説されているが、当時の付き人の女性の「死ぬ二年ほど前から薬物は止めていた」との証言もあり直接の原因ではないだろうと言われている。なおヒロポンの中毒に至ったのは一郎の知り合いに看護師がいたため勧められたのが要因だったと言われている。また自宅が京都木屋町で近所で亡くなる当日も一緒に仕事の阪急西宮球場にハイヤーで向かった女優の森光子によると小声で「これ ハイッ!!」と言われハンカチに包まれた小箱を渡された、中を確認したら薬が入っていたというその後阪急西宮球場を帰宅の際に「さっきの箱おおきに」と言って再び受け取り帰ったという。森光子によると晩年はヒロポンではなくナルコポン打っていたという[3]、また島ひろしによると1940年頃からヒロポンを覚え1942年頃から中毒が酷くなり終戦直後は楽屋に閉じこもったり、意味不明な事言ったり書いたり舞台のネタを間違えたりとちったりするなど異常をきたすようになったという。また睡眠薬をやっていたとか心臓に病を持っていたとも聞いたという[4]。墓所は京都北区光念寺。

ワカナが世を去った後、一郎は2代目ワカナ(後のミヤコ蝶々)とコンビを組むが、半年で解消。その後一郎は、3代目ワカナ(初代ワカナの実の娘である三崎希於子)、4代目ワカナ(元ミスワカ子で後の河村節子)とコンビを変えて、1963年に一郎が亡くなるまでワカナ・一郎としての戎橋松竹角座、吉本の旧うめだ花月などで漫才や創立当初の「吉本ヴァラエティ」(現在の吉本新喜劇)の出演などを続けたが、もはや全盛期の輝きを取り戻すことはなかった。

著書には「旅のつれづれ」がある。これは1946年に地方巡業の際に書き記した日記を著書として弟子の松森和夫より公表された。

ワカナの弟子にミスワカサ(相方は島ひろし)、ミスワカメ、ミスワカ子(後の4代目ワカナを経て河村節子)、ミスワカバ(後の西川ヒノデ・サクラの初代西川サクラ)、女優の森光子テンプレート:要出典。らがいる。一郎の弟子に玉松キャップ近江吾朗河内音頭江州音頭浪曲の曲師)、玉松3郎・8郎らがいる。また多芸で比較的ワカナと芸風が似ていた富士蓉子は「東京のミスワカナ」と言われ人気を博した。

1958年3月に松竹と新生プロダクション、上方演芸(のちの松竹芸能)の3社で合同でワカナの追善興行が行なわれ、弟子や縁の芸人が多数出演した。

漫才界の天才

初代ワカナの鉄砲のごときスピード感で繰り出される変幻自在な話術と歌、茫洋としていながら実は絶妙にワカナを受ける一郎のツッコミとアコーディオンの演奏は、現在もなお非常に高い評価を得ている。ワカナ・一郎は、女性が男性をやっつけて話の主導権を握るという女性上位漫才の祖とも言うべき存在であり、ミヤコ蝶々・南都雄二ミスワカサ・島ひろし島田洋之介・今喜多代など、その後多く輩出される男女コンビに大きな影響を与えた。

華奢なワカナは、大柄でお世辞にもハンサムとは言いがたい一郎を「目はちっちゃいし、鼻は開いてる」「横で鼻をパクパクさせている」などと攻撃し、大いに笑いを取った。またワカナは、その人並外れた記憶力と優れた音感を武器として、歌唱力に長けていたばかりでなく、日本全国のさまざまな方言を自在に操るという離れ業ができた。現在もSPレコードで聴くことができる「ワカナの放浪記」「全国婦人大会」「わらわし隊」などは、全てワカナの天才ぶりがフルに発揮された傑作である。

音源

  • お笑い百貨事典 4 昭和12年〜20年 戦乱の中の笑い 「全国婦人大会」 キングレコード 2000年2月4日
  • 再発見・ニッポンの音/芸(2)上方芸の達人たち ワカナの自叙伝 「ワカナの自叙伝」 テイチク 1995年10月1日
  • 上方漫才黄金時代 「金色夜叉」 コロムビア 1996年2月21日

映画

  • 新興キネマ演芸部時代からコンビで人気ゆえに数本の映画に出演。
    • お伊勢詣り(1939年、新興京都)
    • 金毘羅船(1939年、新興京都)
    • 黄金道中(1940年、新興東京)
    • のど自慢狂時代1949年東横映画
    • 弥次喜多猫化け道中(1949年、東横映画)
  • 玉松一郎一人で
    • 水戸黄門漫遊記 日本晴れの巻(1930年、東宝映画京都)
    陽気な幽霊(1940年、新興京都)
    • 瓢箪から出た駒(1946年、大映東京)

ドラマ・芝居に描かれたワカナ・一郎

初代ワカナは、気性が非常に激しく、その生き方も極めて自由奔放であった。ワカナが生前可愛がっていたという森光子主演による演劇作品「おもろい女」(1978年初演、作・小野田勇)は、希代の天才でありスターでありながら、ヒロポンによって体を蝕まれやがて自滅してしまう、その儚くも壮絶な人生を描いている。森の死後は、藤山直美によって演じられることが決定している[5]

また、1987年に花王名人劇場で放送された「にっぽん笑売人」では、宮川大助・花子が「ワカナ・一郎」を演じている。なお吉本の会長だった林正之助は大助・花子に対して「おまはんら、ワカナ・一郎の名預かっているさかい、つがへんか?」と襲名を薦めていた。

ミスワカナを演じた女優

玉松一郎を演じた俳優

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

  • [1]
  • 江州音頭取り兼漫才師。
  • 大衆芸能資料集成 月報3 1980年3月 森光子インタビュー
  • 大衆芸能資料集成 第7巻 聞書き P.399
  • テンプレート:Cite news