マニシェ
マニシェ(Maniche)ことヌーノ・リカルド・オリベイラ・リベイロ(Nuno Ricardo Oliveira Riveiro、1977年11月11日 - )は、ポルトガル出身の元サッカー選手。ポルトガル代表であった。ポジションはMF。契約会社はナイキ。
概略
チームワーク、スタミナ、強力なシュート力で知られているため、1980年代にベンフィカで活躍した伝説的なデンマーク人FWミカエル・マニケにちなんで、「マニシェ」とのニックネームを得る(ベンフィカの一部サポーターはマニケと発音することもある)。主にボランチを担当するが、オフェンシブハーフなどもそつなくこなす。同国屈指の司令塔・デコらと同世代で、ポルトガル代表を支えた。弟のジョルジェ・リベイロもプロサッカー選手であり、マニシェ同様にベンフィカの下部組織出身である。
経歴
クラブ
SLベンフィカのジュニアチームでサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。FCアルベルサにレンタル移籍し3シーズン過ごした後、1999年にベンフィカに戻ると、サイドハーフとしてプレイし、チームの中核として活躍する。2000年8月から9月には、チームの成績不振に伴い監督に就任したジョゼ・モウリーニョの下でプレイする。だがその後、待遇をめぐってフロント陣と対立するなど規律上の問題を起こし、トップチームから追放された。
2002年、FCポルトの監督に就任していたジョゼ・モウリーニョによって同チームに迎えられる。モウリーニョはマニシェをチームの中心的プレイヤーに据え、彼をセンターハーフとしてプレイさせた。マニシェはモウリーニョの下で存在感を示し、2002-03シーズンにUEFAカップを、2003-04シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグを制するなど輝かしい時を過ごす。その後はチームの低迷に伴い移籍を希望するようになり、2005年にFCディナモ・モスクワに1600万ユーロで移籍した。
だが鳴り物入りで移籍したディナモ・モスクワでは活躍することができず、2006年1月にチェルシーFCにレンタル移籍した。ベンフィカ、FCポルト時代の恩師モウリーニョが率いるクラブで十分な存在感を示すことができず、買い取りオプション(500万ユーロ)が行使されることなくディナモ・モスクワに戻った。
2006年8月後半にアトレティコ・マドリードへと移籍すると主力として活躍したが、仮病で試合を欠場したことでハビエル・アギーレ監督の逆鱗に触れ、チームを追放された。2008年1月にイタリアのインテルにレンタル移籍し、8試合に出場し1ゴールを決めた。2008年7月に再びアトレティコへと戻り、リーグ戦とUEFAチャンピオンズリーグの双方で出場機会を得たが、指揮官との衝突が絶えず、2009年6月に迫った契約期間終了を待たずに同年5月に両者合意の下アトレティコを退団した。
2009年7月、ドイツ・ブンデスリーガの1.FCケルンと2年契約を結んだ[1]。2010年5月、1.FCケルンとの契約を解除して[2]スポルティング・リスボンに移籍した。2011年夏にスポルティングを退団した後は所属クラブがなかったが、2012年5月に現役引退を表明した[3]。
代表
2003年にポルトガル代表デビューし、それ以来50試合以上に出場している。UEFA欧州選手権2004と2006 FIFAワールドカップに出場し、2006年のドイツワールドカップでは、チーム最多の2得点を挙げている。 UEFA欧州選手権2008予選では存在感を示すも、本大会出場メンバーからは脱落した。なお弟のリベイロは本大会出場メンバーに選出された。
所属クラブ
- 1995-1999 テンプレート:Flagicon SLベンフィカ
- 1996-1999 テンプレート:Flagicon FCアルベルカ
- 1999-2002 テンプレート:Flagicon SLベンフィカ
- 2002-2005 テンプレート:Flagicon FCポルト
- 2005-2006 テンプレート:Flagicon FCディナモ・モスクワ
- 2006.1-6 →テンプレート:Flagicon チェルシーFC (loan)
- 2006-2009.5 テンプレート:Flagicon アトレティコ・マドリード
- 2008.1-5 →テンプレート:Flagicon インテル (loan)
- 2009-2010 テンプレート:Flagicon 1.FCケルン
- 2010-2011 テンプレート:Flagicon スポルティング・リスボン
脚注
テンプレート:Navboxes- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ マニシェが母国復帰へGoal.com、2010年5月17日
- ↑ 元ポルトガル代表のマニシェが現役引退Goal.com、2012年5月15日